(総文字数 約17,200文字)

黒部ゆく かく汗多し なんの汗
(黒部峡谷紀行)
 
 
1989年9月15〜18日 金〜月曜日
黒部峡谷下ノ廊下(富山県上新川郡黒部ダム〜下新川郡欅平)
 
実施行程表
 
第1日 9月16日(土曜日)
 
▼ロッジくろよん(6:15)
   ↓20分
▼黒四ダム(6:35)
   ↓15分
▼トンネル出口(6:50)…旧日電歩道『下ノ廊下』起点
   ↓30分…ジグザグの急な下り坂を谷底まで降りる.ダムを下から見上げる
▼ダム下(7:20)…仮設橋を渡る
   ↓25分
▼休憩(7:45〜8:10)…最初に出くわす涸沢
   ↓30分
▼内蔵助谷出合(8:40)…通行止めのロープをくぐる.内蔵助谷に木橋あり.激流に圧倒される
   ↓20分
▼崩壊区間(9:00)…数メートルの巨岩がゴロゴロした河原.通過するのに15分程度かかる
   ↓45分
▼滝(9:45)…対岸に見える
   ↓15分…屏風岩の大へつりを通過
        (へつり:絶壁や川岸などの険阻な路)
▼棒ノ木平(昼食10:00〜10:40)…巨岩の横たわる開けた河原
   ↓60分
▼別山沢(不通箇所11:40〜12:20)…付近一帯に雪渓が残存,歩道は寸断されている.ルート設定に約40分費やす
   ↓30分
▼白竜峡(12:50)…谷が狭まった最もスリルある区間.岸壁をコの字形にくり抜いた幅の狭い道
   ↓45分
▼滝(13:35)…歩道上に滝が落下,しぶきに注意.その先,雨だれのごとく水がしたたり落ちている.工事用シートの防護トンネルをくぐり抜ける
   ↓5分
▼十字峡(13:40)…剣沢に架かる吊橋を渡る.搖れるのでスリル満点
   ↓50分
▼休憩(14:30〜15:00)…適当な場所なく,歩道上で一服
   ↓35分
▼東谷吊橋(15:35)…長い吊橋.足元要注意
   ↓25分
▼仙人ダム(16:00)…ダム上部を歩き,左岸に渡る.高熱トンネルがあり,入口前を通過時,突然の熱気に襲われる.しばらく関電構内を通過
   ↓20分
▼人見平頂部(16:20)…心臓破りの急坂
   ↓20分
▼休憩(16:40〜16:45)…小さな沢あり,水を飲む
   ↓5分
▼仙人谷分岐(16:50)…剣沢からの道と合流
   ↓20分…急な下り坂.疲れた足にまともにこたえる
▼阿曽原温泉小屋(17:10)…プレハブの山小屋.露天風呂有り
 

 
歩行 515分(8時間35分)
休憩 140分(2時間20分) 計655分(10時間55分)
 
 
 
第2日 9月17日(日曜日)
 
▼阿曽原温泉小屋(6:20)
   ↓50分…小屋からすぐの阿曽原谷を越えると,いきなり急な登り坂.その後"水平"歩道に移行
▼休憩(7:10〜7:30)…最初にある沢.滑滝がある
   ↓50分…奥鐘山が姿を現し,欅平が遠望できる
▼滝(小休止8:20〜8:30)…かなり大きな滝
   ↓5分
▼折尾谷(8:35)…砂防ダム内部にトンネル有り
   ↓55分…大太鼓のへつり
▼志合谷(9:30)…沢の下部をうがった長いトンネル.内部に水が溜り靴が濡れる.ライト必要.頭上注意
   ↓30分…奥鐘山の大絶壁が正面に見える
▼休憩(10:00〜10:40)…木陰の倒木に腰掛けて休む
   ↓65分
▼欅平上部送電鉄塔(小休止11:45〜12:05)…周囲開け見晴らし抜群
   ↓45分…急な下り坂(シジミ坂).足元極めて悪く降りにくい.最後のふんばり要す.
▼欅平(12:50)…ゴールイン
 

 
歩行 300分(5時間)
休憩  90分(1時間30分) 計390分(6時間30分)
 
 
 
▽まえがき
 三年ほど前、徳島第五の高峰、矢筈山登頂を皮切りに県内の主に千m峰以上の山を、月一〜二回程度のペースで登り始めた。現在ではその数20数座を超え、ますます山登りの楽しさを再認識、アウトドアライフをエンジョイしてきた。そして徳島の山だけでは満足できなくなり、ついに初の海外遠征?(勿論四国の外という意味)となった次第である。
 今回、目的とした山は北アルプス、しかも思いっきりよく、いきなり熟達者向けのコースとされる黒部峡谷“下ノ廊下”を選んだのだ。なお、廊下とは谷の両岸が垂直の岸壁となっている難所をいい、“下ノ廊下”とは黒四ダムから欅平(けやきだいら)までの峡谷をいう。その垂直の岸壁を掘削してつくられた、幅の狭い険しい道が旧日電歩道である。過去、幾多の登山者が黒部の激流に呑込まれ、消えたことであろう。その数200人を下らないとも言われている。
 同行するのは、我がネイチャーラブクラブのレギュラー会員(と言っても総勢たった3名!です?)であり、いつもの山岳メンバーでもある「ビールマン」こと、某H君。その由来はこよなく酒を好み、いついかなる時でもビールさえ飲めばポパイのごとくホイホイと力が湧き出るからだ。さしずめ私は「ビールマンU」ということになるが、ここはややカッコよく「さすらいトレッカー」と呼んで欲しい。
 出発一週間前に歩道を管理する関西電力に問い合わせたところ、今年は残雪が多く、ルート整備に手間取り未だ全面開通に至っていないとのことであった。H君と相談、十月八日に延期する案も出てきた。その日にすれば開通は確実だし紅葉も見頃となろう。しかし、日は短くなるし寒くなる。二転三転するが、結局
「よしっ!とにかく行ってみるか!もしだめなら立山にでも登ろう」
と急転直下まとまり、予定日時に決行することを確認。
 
■9月16日(雨後曇り)ロッジくろよん→黒四ダム(歩行20分)
 前日までの土砂降りの雨も明け方には小雨となった。今朝は5時半起床、朝ハンを弁当にしてもらい6時15分、黒部湖畔にたたずむ‘ロッジくろよん’を後にする。写真を撮るには少々うす暗いが、一応ロッジ前で記念写真を撮る。
 昨日到着した時、すぐに下ノ廊下の状況を聞いてみた。ロッジ管理人のジイさんの話に依ると、すでに今までに何組かのパーティーが通ったという。今夜もこのロッジに、下の廊下へ行くという数組のパーティーが泊まっているらしい。もっと詳しい話を聞きたかったが、なにせこのジイさん,耳が遠いうえ言葉が訛っているのか,はっきり聞き取りにくいので、それ以上のことは諦めた。とにかく通行可能なことは確かなようである。
 黒四ダムは雲が低く垂れ込め、小雨模様。観光客はまだ訪れていない。さらにダムから放水していないので、静寂の世界そのものである。傍らのベンチで男女の4人連れが弁当を広げていた。我々がウロキョロしながら日電歩道の入口を探していると、そのうちの一人が近づき、声をかけてきた。見ればロッジで宿泊していた人たちだ。親切にも歩道の入口を教えてくれる。もう一つ別のルートで行く方法もあるらしいが、最も分かり易いコースをとる。

 <早朝の黒四ダム湖>

 彼らも下ノ廊下へ行くのだそうだ。各自ヘルメットを持参、万全の体制で臨んでいるその姿から、並々ならぬ意気込みが、ヒシヒシ伝わってくる。一見、家族のようだが年長のリーダーを「おじさん」と呼んでいたので、親戚のおじさんがガイドを引き受けているのか?まあ、そんなことはどうでもよいが、この先、何度も出会うことになるので、呼び名をつけておこう。ヘルメットを持っているファミリーなので「ヘルファミリー」と呼ぶことに即、決定。
 
■黒四ダム→内蔵助谷出合(歩行1時間40分)
 一旦、トンネル内のバスターミナルまで行く。そこからバスの1番乗り場まで行き詰めると、その先左手に分岐した歩行用のトンネルが延びている。トンネルを抜けると、そこが日電歩道の起点である。歩行要注意やら通行止めの張り紙がある。どうやら道はかなり荒れているようだ。雨がやや強くなってきたのでカッパを着込む。準備を整え6時50分、いよいよ記念すべき出発の時が来た。
 しばらくの間は林道を降りていくが、間もなく歩道は分岐、ジグザグの急な登山道となる。その道を30分かけ、一気にダム下へ。下から見上げる黒四ダムも迫力満点だ。しかし、その光景をノンビリ楽しんでいる場合ではない。対岸に渡るのに仮設の橋を通過しなければならない。手摺りに一本のワイヤーロープが張ってあり、歩み板を敷いただけの橋である。それだけならまだ良いが、先ほど7時からダムは観光放水を開始、2つの放水口からドッと水を吐き出している。そのため足元の流れは水かさを増し、今や激流と化している。流れを見つめていると吸い込まれそうで頭がフラッとなり、めまいがおこる。早くもスリルを味わう。なんとか無事渡りきる。

 <黒四ダム放水>

 以降、歩道は峡谷の左岸(上流から見て)に沿って延びている。道はだんだんと河原から遠ざかり、緩い登りとなりしばらく続く。まもなく二手に別れる。案内標が無いので、どっちへ行っていいか分からない。幸い先行する登山者が下の道を辿っていたので、これ幸いとばかり後について行く。ハシゴが架かっている結構急な下りだ。この坂を下った最初の涸れ沢で一回目の休憩をとることにした。仮設橋から30分の地点だ。ここでロッジで購入した350ml缶ビールを朝食代わりに飲む。ビールはこの他500ml4本をバックパックにしっかり詰め込んでいる。さらに弁当が加わり重いことこのうえなし。昨晩、同室の登山者が「アンタたち、それ全部持ってくの?」と言っていた、あの時の驚いたような、呆れたような、はたまたバカにしたような、と思うのは気の廻しすぎかも知れないが、彼らの顔が妙に印象に残る。25分休憩の後、出発。
 
■内蔵谷出合→棒ノ木平(歩行1時間20分)
 休憩場所より30分で内蔵助谷出合に到達。ここは内蔵助平へ通じる道の分岐点でもある。日電歩道には通行止めのロープが張られているが、かまわずくぐり抜ける。この沢を跨いで木橋が架けられている。橋の中央から見上げる内蔵助谷は巨岩がゴロゴロしたダイナミックな様相を呈している。岩の間を縫う水が真っ白に泡立ち、踊り狂うように落下して来る様は、何か得体の知れない生き物が、突然、襲って来る恐怖に駆られる。足早く早々に渡る。さらに20分歩くと、広い範囲で岩石が崩壊した場所にでる。所々、岩に赤ペンキで矢印が塗られている。この矢印に従い、登ったり河原まで下ったりして進む。まったく歩きにくい区間だ。通過するのに15分ほど要する。
 10時ジャスト、対岸に鳴沢小沢の滝が見られる開けた河原、棒ノ木平に到着。荷物を少しでも軽くするため、少し早いけれども、ここで昼飯にしないかとH君に持ちかける。まずすべきは、ビールを谷の水で冷やすこと。それからおもむろに顔を洗ったり汗を拭ったりして、しばらく一息入れる。次いでお楽しみのビールを飲みながらゆったり弁当を頂く。その間にヘルファミリーを含む2グループが通り過ぎる。彼らの歩調はゆっくりだが、確実に一定のスピードを保っている。ボッ〜としている間に視界から消え去った。いち早く出発した我々であったが、ウサギとカメの話よろしく、あっさり追い抜かれてしまった。時計を見るとすでに40分も経過している。少々くつろぎまくったようだ。のんびりとしている場合ではない。慌てて出発の準備にとりかかる。もう1本、沢に冷やしておいた予備のビールをスポンジ製の保冷筒にセット、これで万事OK。
 
■棒ノ木平→別山沢(歩行1時間)
 新越沢合流点の沢に雪渓が残っている。対岸には新越ノ滝が絶壁を滑り落ちている。まるで白い帯が垂れ下がっているようだ。途中、2ケ所ほど歩道側に滝が落ちている所を通過したように思う。屏風岩の大へつり(絶壁や川岸などの険阻な路)を通過、別山沢にさしかかると巨大な雪渓が見られる。雪渓の上部は土砂が堆積し、茶色に変色している。
 あれ!どうしたことだろう?立ち止まっている者が数人いるではないか。例のヘルファミリーと、ロッジに同宿していたヤングノッポコンビ(以下ノッポコンビ)の面々だ。沢に崩れかけた雪渓が行く手を拒んでいるのだ。すぐ上には見事なスノーブリッジが形成され、水流がトンネルを開けている。雪渓からはモヤモヤと水蒸気が立ち上っている。
 感心して見とれている場合ではない。さあ、これは大変、引き返さなければならないのか?ノッポコンビが雪渓の上に登り、ルートを探っている。ヘルファミリーのリーダー(以下ヘルリーダー)も彼らを手伝い始めた。我々も呆然と見とれているのは忍びないので、何か手伝おうと思う、が、雪渓はとても滑りやすく危険だ。ここはやはりベテランにお任せする方がよろしいと判断、H君にこの旨伝えると即座に合点!
 ヘルリーダーが歩道に横たえてある丸太のハシゴを利用することを提案。これはたぶん雪渓が溶けたとき、本来のルート用に使うのだろう。今まで取り立ててこれと言った難路は無かったから、この区間が開通すれば、初めて全面開通になると思われる。さて、以外と重いハシゴをやっとの思いで雪渓の上に渡す。これでなんとか中間まで行けそうだ。もう一カ所、トラバースしなければならない難所がある。この部分は氷のように固くなった雪渓をこぶし大の石ではつってルートを確保している。ピッケルとかアイゼンがあれば簡単な作業なのに。誰もこのような事態を予測していなかったとみえる。なにはともあれ、懸命にルートを切り開いている彼らの姿に心打たれると共に、感謝しなければならない。苦闘30分、おかげでなんとか通れそうになった。まず荷物だけリレーで運び、次に一人づつ転落しないよう手を添えて順次渡って行く。こうして全員無事、沢まで下りることができた。
 次の問題は対岸にどうやって登るかである。雪渓に削られたのか、道は完全に崩壊している。ヘルリーダーはその崩壊したルートを登ろうと懸命に試みている。一方、ノッポコンビはここでも精力的に登り口を探している。我々はしばらく様子をみていたが、彼らがなかなか戻ってこないので、去った方に行ってみることにした。岩を乗り越え雪渓をくぐり抜ける。その時気が付いたが、水滴が雨のようにポタポタ落下、雪渓は非常な早さで溶けているのだ。軍手をはいていても触れた途端、手のひらに急激に冷気が伝わり軍手はビショ濡れとなる。新たなる発見をした気分になる。

 <ルート探索中!>

 ノッポコンビは、いつの間にか対岸の歩道まで登っていた。こっちへ来るよう手招きしている。その方向を見ると岩に割れ目があり、やや勾配はきついが、なんとか登れそうである。中間まで自力で登ったが、後半は荷物を先に手渡し、ノッポコンビに引き上げてもらう。その後直ちに、彼らはヘルファミリーを手伝いに去ってしまった。
 ヤレヤレ、一時はどうなるものかと気を揉んだが、なんとか無事通過出来た。しかし、他の登山者はどうやってここを越えたのだろうか?どこか他に迂回路があるのか?そう思って落ち着いて振り返れば、別山沢から100mぐらい戻ったところに、河原に降りれれそうな崩壊箇所がある。あそこなら楽に降りられそうだ。来る時は全く気付かなかった。先行した登山者の姿が見えないので、たぶんこのルートを通ったと思われる。しかし、このことは黙っていよう。せっかく骨を折り必死でルート切り開いてくれた彼らに対して・・・
 そんなことを考えながら、しばらく全員が揃うのを待つ。私たちがいても何の役にも立たないが、もし先に出発すれば、「何とまぁ〜冷たい奴らだ!」などと思われはしないかと考える私は、偏屈な性格であることは拒めない。そうこうしている内、ヘルファミリーも別ルートで登って来た。
 
■別山沢→白竜峡(歩行30分)
 しばらくこのメンバーが隊列を組んで進む。別山沢を過ぎると道は一段と険しさを増し、谷がぐっと狭まる。ふと、後ろを振り返ると、誰もついてきていない。多分、彼らは昼食をとっているのだろう。頭上の岩が屋根のように覆いかぶさる。オーバーハングした岸壁に、文字通り‘コ’の字形にうがった、人ひとりがやっと通れるだけの幅の狭い道が続く。その岸壁に打ち込まれた鉄のリングに2本の針金が通されている。これが唯一,命の頼りだ。この手すりの針金をしっかり持ち、気合いを入れ慎重に歩く。勿論、谷川には何らガードは無い。針金を手放せば絶体絶命の万事休す、激流渦巻く黒部の谷の露と消える。廻りの景色を楽しむ余裕など全く無し。完全に崩れてしまった部分には、丸太が2〜3本束ねて架けられてはいるが、まるで空中を綱渡りしているような気分である。
 対岸をチラッと見れば、滝がいくつか見られる。いよいよ白竜峡に入ったらしい。白竜の名が示すとおり谷は狭まり湾曲、白い巨岩を打ち砕くがごとく水流が翻弄している。歩道の所々に花がたむけられている。誰か遭難したのだろう。金属プレートの遭難碑、それから遺品捜索依頼の告知板があったりして、いやがうえにも緊張させられる。足元の歩道は、幅が20p足らずしかないところがある。しかも濡れて滑りそうなので、自然と体が岩壁にへばりつく。もし足を滑らすようなことがあれば、ロープかワイヤーならともかく、こんな細い針金では手が滑って、到底体を支えることはできないだろう。だからこの針金の役目はせいぜい体のバランスを保つ程度、と言っても過言ではない。白竜峡を過ぎても同じような歩道が続くので、いい加減ウンザリしてくる。

 <白竜峡通過中!>

 白竜峡中心部から45分ほど歩いた頃、滝がまともに歩道上に落ちている箇所がある。濡れないよう注意しながらすばやく飛び越える。無論、谷側は断崖絶壁である。その先にも水がスダレのごとく落ちているが、こちらは工事用ブルーシートを用いてトンネル状に覆いがされている。しかし、岩やシートを伝わり、かなりの水量が歩道にしたたり落ちているうえ、隙間やつなぎ目からも漏れている。結局、頭からびっしょり濡れる羽目になる。
 まるで冒険映画の如く次々にピンチ到来。そのピンチをどうにか切り抜ける度に、普段かく汗に加え、別の冷汗とか脂汗それに手に握る汗もが入り乱れ、もうグッタリ。
 そこで一句、これがそのまま本文のタイトルとなったのだ。
 
■白竜峡→十字峡→仙人ダム(2時間40分)
 まもなく歩道は次のハイライト、十字峡にさしかかる。これは名の通り、本流である黒部川に対し両岸からピッタリ十文字に沢が合流している。左岸の剱沢、右岸から棒小屋沢が流れ込んでいる。水量の多い剱沢に吊橋が架けられ、その搖れる中央部からビクビク見おろす十字峡は壮観の一語に尽きる。日電歩道を歩いて来た者のみに姿を現し、見ることを許されるのだ。十字峡を目の前で堪能するには、橋の手前から本流の近くの岩まで降りて行けるが、ここで十分満足。ユラーリユラリと揺れる橋の上で両手を離しカメラを構えるには相当の覚悟が必要。なお、この剱沢のずっと上流に剱大滝がある。2段から成る滝で構成され、上部の滝は音は聞こえるが姿が見えないと云う、まぼろしの滝である。上空からのみしか確認できないのだ。

 <剱沢吊橋>

 再び歩道をひたすら歩む。十字峡から50分の地点で休息。昼飯以来ほぼ4時間ぶりである。通行人の邪魔にならないようバックパックを端に寄せるなどのちょっとした気配りを忘れない。狭くて座り込むことが出来ないので、岩にもたれ掛かり、毎度お馴染みのビールとおつまみをボソボソ食べる。このころ雲が途切れ青空が見えたりする。30分休憩の後、出発。ちょうど3時になったばかりだ。
 少し歩いたところで対岸の遙か上方の崖っぷちに建物が見える。関電作部谷宿舎である。かなりりっぱな建物だ。あんなところで泊まれば、さぞかし気持ちのいいことだろう。一度泊まってみたいものである。関電の職員は幸せ者だと、うらやましながら黙々と歩く。

 <S字峡付近>

 半月峡を過ぎS字峡にさしかかったあたり、黒四地下発電所からの送電線取出口が,山腹にふたつポッカリ口を開けている。やがて道は東谷吊橋へと急に下がってゆく。

 <東谷吊橋>

 長い吊橋を渡りきると黒四発電所工事用のトンネル前広場に着く。しばらく林道を歩けば、側壁に窓が開けられたトンネルがある。ライトは必要ない。まもなく仙人ダムに到着する。ダム下流側に関電専用のトロッコ電車の鉄橋がある。送水管の上に乗っかかる形で架かっているその姿を横に見ながら、ダムの上を通り対岸に渡る。
 この軌道を横断、山裾につけられたコンクリート通路を歩く。途中に作業用トンネルがあるのだが、その前を通り過ぎようとした時、突然、猛烈な熱気が襲ってきた。「なっ、なぁんじゃコリャ〜!」度肝を抜かれ、思わず声をあげてしまった。一瞬にメガネが曇ってしまう。それに猛烈な硫黄の臭い。まさしく不意を突かれたので、しばらく何がどうなったのかさっぱり訳が分からなかった。通り過ぎてからやっと思い出した。これがあの有名な高熱随道なのだ。この付近には高熱地帯があり、その岩盤温度は130度にも達するという。この高熱地帯を貫通しているトンネルが高熱随道なのだ。
 通路は人見平の関電宿舎に通じ、いったん建物内に入り玄関を通ってから再び外に出て登山道に戻る。黒部下の廊下は実質的にこの仙人谷までの峡谷を指すので、ここでひとまず終わることになる。だが阿曽原はまだまだ先だ。
 
■仙人ダム→阿曽原(1時間5分)
 関電構内を過ぎてこのまま平坦な山道を辿れば、すんなり阿曽原まで行ける、という風に思っていた。ところが世の中そんなに甘くない。道はほどなく四つん這ばいで山腹をよじ登らなければならない、急峻な登山道と化したのだ。丸太のハシゴを何度も登る。息は絶え絶え、心臓の鼓動も一段と激しくなる。呼吸を整え再び登るという具合いに、何度立ち止まったことか。水平歩道と言われているが、アレは真っ赤なウソだ!などとブツブツ文句を言ったりしながらもやっと登りきる。えらく長い時間費やしたようだが、実際はダム宿舎から20分の行程。これ以降、水平な歩道に移行。
 阿曽原も目前に近づいたが、ノドの渇きが激しくどうにも我慢しきれなくなり、小休止を兼ね途中のごく小さい沢で一服。水がチョロチョロ流れる谷の水をカップに汲み、シーマックスで喉を潤す。なお余談であるが、今回我々は水筒を持参していない。下ノ廊下は至る所に沢があり、容易に水が得られるのがその理由であるが、もうひとつ、ビールさえあれば何とかなるだろうと考えていたからだ。ともあれ,やっと落ち着きを取り戻したので出発。5分で剣沢方面からの登山道との合流点に着いた。
 ここから一気に急な下り坂となる。石が浮いた荒れた道なので足にこたえる。徳島の山ではこんな道はしょっちゅう経験しているのだが、何分足は疲労こんばいでヨタヨタ、膝はガクガク。すでに極限と思えるほど衰弱しきっている。それでもあともうひとふんばりと思い、最後の力を振り絞る。辺りも薄暗くなってきた。そんな時、すぐ真下に青いトタン屋根が見えた。物置か作業小屋かなと思っていると、それが今夜の宿、阿曽原温泉小屋であった。小屋はプレハブ2棟を繋げた簡単な造りだ。到着時刻5時10分。
 
■阿曽原温泉小屋
 早速宿泊手続きを済ます。夕食6時、風呂6時〜8時(ただし夕食を頼んだ者は先に食事をする)、消灯9時、朝食5時30分となっている。通常では考えられないスケジュールにしばし唖然。まるで軍隊の宿舎みたいな規律だ。さらに驚くべきことに350ml缶ビール500円也。今晩は飲み過ぎる心配はなさそうだと思いつつも、早速購入。
 部屋に入りまず冷えたビールを一気飲み。部屋は大部屋で2部屋に別れている。見渡すと10人ほどの先客が居る。荷物が片隅に置かれているが、それ以上の人数分あるようだ。自分たちの場所を確保してから着替えを済ます。そうこうしているうち、ヘルファミリー、ノップコンビ達も到着した。
 6時きっかり、夕ハンの席につく。我々は最も早く席について食べ始めたのだが、例によってビール片手にやったので、結局最後になってしまった。他の人たちはさっさと食べ終わり、さっさとかたずけて部屋に引き上げてしまった。我々もいつまでもしぶとく、このささやかなる宴会を続ける訳にもいかないので、いきなりピッチを上げる。
 さて、部屋に戻ってアッと驚くことになろうとは、誰が予測し得たか?すでに部屋いっぱいに布団が敷かれている。当初、確保していた場所など関係なく、各自、すでに自分の寝床をキープ、その上に寝転がったり雑談したりしている。荷物はまとめて部屋の隅に積まれている。かのヘルリーダーも一瞬面食らい、戸惑い慌て、たじろぎながらも「こ、ここから4人分取りますよ、い、いいですね!」としっかり確保しているところはさすが、タダモノではない。我々も一応、布団は確保でき一安心。まぁ人数分はあるはずだから、そんなに心配することもないだろうが。しかし、山小屋というもの『来るもの拒まず』の大原則があり、定員に関係なく受け入れる。最盛期などスシ詰めの時もあろう。いずれにせよ、我々初心者にとって、山小屋のルールは慣れないとなかなか面倒なものである。
 
■露天風呂
 疲れてはいるがせっかく来たのだから露天風呂とやらへ行ってみようじゃないか、ということになった。風呂は小屋の下の方にあり、ちょっとばかり歩いて行かなければならないようだ。出発に先立ち、ふとんの上に持ち物を置き、自分の寝床であることを誇示しておく。私が準備をしているうちにH君の姿が見えなくなった。『アレ!先に行ったのかな?それにしても一言も言わないで行くなんて!』と思いつつ急ぎ後を追う。小屋備え付けのサンダルをつっかけ小屋を出ると20mぐらい前方にライトを持った一団が歩いている。多分、あそこにH君がいるのだろう。
 すでに7時をまわり、あたりはすっかり夜のとばりが降りている。そのため追いつこうと試みるが暗くて足下がさっぱり見えず、思うように歩けない。『懐中電灯を持ってくればよかった。今から取りに帰るのも面倒だし、エーイこのまま行け!』下り坂なので一歩一歩足元を確かめながら歩かなければならない。とうとう彼らを見失ってしまった。そのうちだんだんと暗闇に目が慣れてくる。下方の斜面を眺めると湯気が立ち上がっている。まだまだ下まで降りなければならないようだ。それにしてもこんなえらい目をして風呂に行くのは初めてだ。それでもなんとか風呂まで辿り着く。
 電球ぐらいあるのかと思ったが明りは何もない。すでに5〜6人ほど入浴している様子だ。早速湯につかり周囲を見回すが、どうやらH君の姿はない。聞くとはなしに周りの会話を小耳にはさむと、彼らは欅平〜阿曽原間往復の山行らしい。
 温泉の湯はそれほど熱くないので、ゆっくり入っていられる。疲れた体に心地よい。黒部川のせせらぎもかすかに聞こえてくる。昼間なら絶景を堪能しながら入浴できるであろうに。帰りは誰かライトを持っている人の後をついて行ってやろう、と思って待っていたが、一向に誰も湯から上がる気配がない。どうやら帰りも無灯で帰るしか術はないようだ。仕方なく服を着て,いそいそと暗闇の道を引き返す。一度通った道なのでかなり歩きやすい。ところが足の小指がサンダルと擦れ、豆ができてしまったようだ。歩く度にズキッと傷みが走る。結局情けないことに、来たときよりもさらにゆっくり歩かなければならない状況に陥った。小屋までの中間ぐらいのところで風呂へ行く一行とすれ違う。最後尾の者が何か話しかけてくる。顔を上げ、よくよく見ると何とそれがH君だった。彼はまだ風呂には行ってなかったのだ。いったい今まで何やってたんだろう?
 何とか小屋まで辿り着いたのはよいが,風呂上がりの火照った体でかくも険しい道を登ってきたので汗ビッショリ。これでは何のために風呂に入ったのか意味がない。しばらく外のベンチに腰をおろし涼む。空を見上げれば満点の星があれば気分最高、言うことなし、なのだが残念なことに今晩は曇り空。汗が引いてから部屋に戻った。しばらくするとH君が帰ってきた。彼のTシャツも汗でビショビショに濡れていた。
「なかなか趣のある温泉だが、風呂に入るのにこんなしんどい思いをしたのは初めてだ!」
とボヤくことしきり。喉が渇いたので300円也のジュースを二人して飲む。
 
■阿曽原の夜は更けて
 まだ8時前だが疲れていたのでふとんに横たわり目を閉じ、今日一日のことを思い浮かべる。走馬燈のようにいろいろな出来事が頭をよぎる。やはり最大の難所は白竜峡であった。あれほど身が縮む恐怖を感じ、顔がひきつったことは、ついぞない。なにせいっときも手すりの針金を放すことが出来なかった。よって開通に先だち、我々が丁寧に手すりの清掃をしてきたのである。
 それにつけても、よくもまぁ〜一日中歩き続けたものだ。これも、そう、もう8年になろうか、スキーに超熱中、コブ斜面滑降時の体力増強にと、せっせと水泳に励んできたおかげだ。スキーの話はまたいずれの機会にするとして、ウチのカミさんなぞ、そんな私を『必殺!遊び人』と呼ぶ始末。『亭主元気で留守がよい』とはよくぞ言ったものだ。アレコレ頭の中で思い巡らしていると、向こうの方から女性を含む中年らしき5〜6人の会話が洩れてきた。
 
「そりゃあ 定年退職すりゃ〜 ヒマはいっくらでも出来ますよ…だけどネ あなた…そのとき果して体がゆうことききますか…でしょう だから私しゃ〜今こうやって山に登ってるんですよ」
「ワシもそうですよ 最近、40ぐらいになってまた山登りを始める人が多いって聞いとります そんな人たちみんな、そういう思いで来てるんじゃないですかな?ただ、がむしゃらに山登りした学生の頃と違って、なんかこう、ゆとりを持って登れますよ」
「そう言われれば確かに気負といったものはなくなってるね 今の方がずっ〜と楽しんでます まぁ、学生の頃の山登りは先輩のなすがままについて行っただけでしたからネ〜ただ苦しかっただけですよ」
「それに学生の頃なんてお金がないでしょ こんな山小屋なんか、とてもとても泊まれなかったもんです」
「そう、その通り!こんなとこで布団の上で寝られるなんてまったく天国ですな こんなことなら家族も連れてくりゃよかったな ボクなんか月一回はどこかへ出かけているんですがね…そりゃ〜よく子供たちに連れてけ〜連れてけ〜ってせがまれるんですよ それで年に一回ぐらい連れてってるんですがね」
「そいつはちょっと増やした方がいいですよ だけど家族と来るとなると子供の休みとか、それに共働きだったら日程の調整などもあるし、なかなか難しいね 身勝手なようだけどやはり一人でくるのが一番ですよ」
「まあ こうやって来れるのも家族のおかげです 感謝してます」
「そう、甘えてせっせと来ましょうや あくせく働いて悩んで苦しんで、その結果、多少出世しても結局人の一生、そう変わるもんじゃないでしょう?」
「会社の為に身をすり減らすなんてバッカみたい 用が済めばポイですから その時、自分はいったい何やってきたんだってことに気が付いても遅いですよ!」
「しかし、彼らに言わせれば、それは負け犬の遠吠えだって言ってますよ 自分の能力をいかんなく発揮でき、部下を手足のごとく使える立場になってこそ、辞めてからの人生の充実感につながるんですって 人それぞれですネ」
「だけど,そんな会社にとって優等生に限って、辞めるといっきに年をとってますよ そんな人は仕事ばかりやってて、若い頃、何にも趣味とか道楽やらなかったから、することがなくなって虚脱感に襲われるんですなぁ〜」
「確かにそういった人はいますね なかには定年になった途端、ぶっ倒れる人も最近多いって聞きますよ 生活に疲れ果てたんでしょうなぁ…悲劇ですね〜」
「だいたいどこの会社にいても四十までに、はっきり将来が見えてくるものなんですね そこでダメと感じた者は転職するとか脱サラするとか、あるいはあっさり諦め、万年ヒラで押し通し、せいぜいのんびりやろうとする一群もいる訳です 公務員ならそれでもいいですがね でも〜そうなるといよいよ浮きますね」
「仕事が面白くないからと言って、その反動で趣味に打ち込む人もいますね 僕もそのひとりなんですが、おかげで現在結構楽しくやってますよ 家族と一緒にいる時間も増えましたし」
「―まぁ〜いずれに致しましても、元気なうちにやりたいこといっぱいやっておかなくちゃ〜 後でしもた!思ても手遅れじゃネェ〜 最後に笑うものが勝ちですから…」
9時の消灯を待たずに、私はいつのまにか深い眠りについていた。
 
■9月17日(晴れ)阿曽原の朝
 誰かが肩をたたいている。重い瞼を開けると、なにやらK君が口をパクパク動かしてる。
「お〜い?いったい何やってんだ?―アッそうか!」
夜中、廻りのいびきがうるさかったので、イヤーウイスパー(耳せん)を付けて寝ていたのだった。急いで取り外す。「早よう起きろ」と言っていたのだ。時計を見ると5時25分。眠い目をこする間もなくすぐ朝ハンだ。食べ終わると洗面、トイレと矢継ぎ早に済ます。本日の我々の歩行予定は欅平までなので、なにもそんなに急ぐ必要はないのだが、廻りのみんながバタバタやっているので、ついついペースに巻き込まれてしまう。
 
■阿曽原→折尾谷(歩行1時間45分)
 小屋を出発したのは6時20分。昨夜、露天風呂往復に小屋備え付けのサンダルを素足でつっかけたので、足の小指に豆ができてしまった。歩きだすと痛くてたまらない。すぐ下にキャンプ場があるのだが、そこまで歩くのがやっとという状態だ。そこでカットバンを取り出し2枚いっぺんに巻き付けてみる。これで先ほどの痛さが、別にウソをつく積もりはないが、ウソのように消え、歩き易くなった。
 キャンプ場を過ぎ、阿曽原谷を渡るとすぐに急な登りが始まる。早くも息が切れ汗が吹き出す。しかし、この坂を登りきると欅平上部まで本当の"水平"歩道となっている。時々、樹間を通して姿を現す阿曽原小屋を横目で見ながら黙々と歩く。小屋を出て50分で滑滝のある沢に着く。
 先ほどの急坂でどっと汗をかいたので、すんなりビール休憩に持ち込む。出発前に小屋で買い足したビールから飲もう。そして次の休憩で飲むビールを流れにつけ、冷やしておく段取りの良さ。その間に何人もこちらをジロリと眺めながら通り過ぎる。が、すでにそんなことはまったく気にもしない我々であった。山で居ると些細なことにはトンと無頓着になるらしい。文明社会から遥か遠く離れたこのような地では、人間の奥底に潜む動物的本能の一部を取り戻しているのか?しかしこのまま後遺症がつきまとい、社会に帰ってからも、傍若無人、大胆不敵な行動に突っ走ったりしないかと、いささか気になる小心者のこの私。20分休憩。
 対岸の餓鬼谷を正面に見ながら稜線を回りきると欅平が遠望できる。それよりも注意を引くのは、釣鐘の形をした奥鐘山である。この山はまるでスイスを思い起こさせるような岩石から成る山で、山頂近くから大絶壁が黒部川まで落ち込んでいる。これを奥釣山の大障壁という。以降、欅平までこの山を中心に周囲をぐるっと廻る形に歩き、絶えず目前に立ちはだかる。
 歩道は折尾谷まで大きく湾曲し入り込む。道すがらこの谷の反対側の山腹につけられている歩道がよく観察でき、登山者の歩いている姿が点々と見られる。あそこまで30分もあれば行けるだろう、としごく当然のように考えていた。ところが、思ったよりも谷は深く、道はどこまでも奥へ奥へと続いていたのだ。折尾谷の手前に案外大きな滝がある。ここで見物を兼ね、滝の水でシーマックスを飲みながら小休止。滝から折尾谷まで5分の行程。砂防ダムがあり、そのダムの中にトンネルが設けられている。ここのトンネルは短いのでライトは不用。これでやっと谷の反対側にでる。.
 
■折尾谷→志合谷(55分)
 先ほど30分で着くであろうと思われた地点付近まで来るのに、結局1時間を要した。歩道はきっちり等高線に沿ってつけられている。尾根を回り込むと再び欅平を見おろせる。発電所や駅の建物もはっきり見え、電車の案内アナウンスも聞こえてくる。この付近は大太鼓と呼ばれ、足元は200mの断崖。この区間で最も迫力あるところだ。道は半分トンネル、つまり、カットしたモグラの巣を横から見るとこうなると考えてもらえばよろしい。全くすごいところに造ったものだと感心することしきり。これならトンネルを掘ったほうがよっぽど簡単なのに。もちろんトンネルを掘っている所も、この先の送電鉄塔の手前付近あたりにあるが、そことて傍らの岸壁には錆びた鉄棒やら針金類が垂れ下がっている。それらから判断するとトンネルは比較的新しく、以前は岩壁の険しいところを通っていたに違いない。

 <へつりを通過>

 遠くからでもザレて、荒れているように見えるのが志合谷だ。実際、崩壊が激しく土砂に埋め尽くされている。そのため、この谷の下にはトンネルが掘られている。H君がビッグなサーチライトを持参しているので先に入ってもらう。私のペンライトはまったく役に立たない。まるでローソクみたいで心許ない。次回からはもっと明るい、しかも両手が自由に使えるヘッドランプを持ってこようと、この時決意。
 トンネル内は水浸しで数mも進まないうち、足首の上まで水位が上がる。靴の中に水が入るが、非常に冷たく気持ちがいい。トンネルはこの谷の下をグルッと大きな弧を描くようにつけられている。そのため谷の幅は決して広くはないが、トンネルはかなり長い。後で調べたが長さは150mあった。溜っていた水は出口に向かって流れ出しているようだ。その流れを避けようと端に寄った途端、頭を岩にぶつけてしまった。素堀のため、あちこち凹凸ができている。やはり中央部を通るべきだ。前方にやっと明りが見えた。冷え込んでいた体であったが、出るとむっとするほど暑い。
 
■志合谷→送電鉄塔(1時間35分)
 出口付近で3グループが靴や靴下を履き替えている。その内のひとつのグループはヘルファミリーである。我々は替えの余分を持っていないので、挨拶を交わし濡れた靴のまま通り過ぎる。そこから30分歩いた、幅がやや広がった地点で休憩。早い話がイッツビールタイム!木立の間から大障壁が真正面に見られる。適度な木陰もあるし、そのうえ座るのにうってつけの倒木もある絶好の休憩場所だ。ここでロッジくろよんからはるばる運んで来た最後のビールを飲む。なにか飲んでしまうのがもったいない気がしないでもない。そこでチビリチビリとやる。もう欅平も近い。そうあわてることもない。40分休んだがその間通り過ぎたのは1グループのみ。みんな同じ思いでゆっくりしているのだろう。
■志合谷→送電鉄塔(1時間35分)
 出口付近で3グループが靴や靴下を履き替えている。その内のひとつのグループはヘルファミリーである。我々は替えの余分を持っていないので、挨拶を交わし濡れた靴のまま通り過ぎる。そこから30分歩いた、幅がやや広がった地点で休憩。早い話がイッツビールタイム!木立の間から大障壁が真正面に見られる。適度な木陰もあるし、そのうえ座るのにうってつけの倒木もある絶好の休憩場所だ。ここでロッジくろよんからはるばる運んで来た最後のビールを飲む。なにか飲んでしまうのがもったいない気がしないでもない。そこでチビリチビリとやる。もう欅平も近い。そうあわてることもない。40分休んだがその間通り過ぎたのは1グループのみ。みんな同じ思いでゆっくりしているのだろう。
 送電線を見ながら歩くこと65分。欅平のちょうど真上に位置する所に送電鉄塔がある。周囲が開け見晴らしがよいので最後の休憩をとる。振り返れば今まで歩いてきた峡谷が見渡せる。西方には毛勝三山、北には黒部川本流、東には祖母谷の遥か彼方に後立山連峰がひときわ高くそびえている。山頂に雪を抱いた白馬岳が特に目立つ。白馬三山から右に向かって不帰ノ瞼、唐松岳と一望に眺められる。いつかはあの山々にも登ろうと決意を新たにする。しばらく地図と見比べ照らし合わせる。ここでこの道中、初めて愛用の双眼鏡を取り出し覗いてみる。目を凝らすと登山者の姿が白馬岳山頂付近に見えるではないか!20分ほど素晴らしい景観を楽しむ。

 <毛勝三山方面>

 
■送電鉄塔→欅平(45分)
 いわゆる"水平"歩道はここまでで、以降、欅平までは急な下り坂となる。木の根っこが至るところムキ出しで荒れており、極めて歩きにくい。ひとつ下の鉄塔まで15分、この鉄塔を過ぎると欅平を真下に見下おろしながら、つづら折れの急斜面を下る。夏草が繁茂し、草いきれがする。かき分けながら歩かなければならない。この区間の歩道はもう少し整備が行き届いていると思っていたのに。登りも弱点の我々だが、下りにもめっぽう弱く往生こく。時々、足が持ち上がらずつま先を石にぶつけ、痛い思いも幾度か。汗が目に入り何度も額を拭う。だがゴール寸前、苦しいのもあと少しの辛抱と自分に言い聞かせ、ただ頑張るのみ。そのせいか近づくにつれだんだんと足早になる。歩道は駅前にある欅平ビジターセンター横の展望台が終点になっている。ついに展望台へ降りる階段に辿り着いた。最後の段を踏み、観光客で賑わう人混みの中へ入る。どこか別の世界から舞戻ってきたような気分になったのは、何故だろうか?駅の時計を見ると12時50分、阿曽原小屋を出発してから6時間30分経過していた。
 まず最初に洗面所で顔を洗う。なんと心地よいことか!何回も洗う。その後、直ちに駅の切符売り場へと急ぐ。2時間後に出発する宇奈月行きの切符を買っておく。この時期、トロッコ電車はすぐに満席となるからだ。もちろん窓のない屋根だけの普通席を予約する。
 次に為すべきことは、2階のレストハウスへかけ登り、腹ごしらえだ。いやいや、まず先にビールだ。無事、全踏破出来たことにクワァンパ〜イ!思えばロッジくろよん出発以来、費やした時間はトータルで17時間25分、うち休憩・食事等に3時間50分、差引すると13時間35分歩いたことになる。よくやって来れたものだ。ひとつのことを成し遂げた充実感にしばし浸りきる。その後、来年度の遠征はどこにすべきか、口角泡を飛ばし議論している私たちであった。
 
▽あとがき
 黒四ダムから欅平までの峡谷部分は13km足らずだが、歩行距離は30kmになる。この歩道は、もともと旧日本電力が昭和4年、電源開発調査用につくったものだ。戦後、関西電力が引き継ぎ、黒四建設時にも使用された。それが昭和34年になって、一般に開放され現在に至っている。今年の開通は例年よりかなり遅れ、9月29日になったと聞いた。
 なお、我々が出発を延期しようとしていた予備日時、つまり10月8日、立山に初雪が降り、山頂付近では猛吹雪となり積雪は30cmを記録。その立山で中高年グループの登山者8人が遭難したことをテレビで報じていた。山は静かなるときは、その美しい姿を余すことなく私達の目前に披露してくれる。一方、ひとたび機嫌を損ね荒れ狂うと、容赦なく襲いかかって来る。であるから山での行動は慎重かつ容易周到、さらに的確な状況判断が必要と、事故が起こる度に耳にタコができるくらい、よく聞かされる。この場合も気象の急変をいち早く察知、登山中止を決断、引き返しておればこのような悲惨な結果にならなかっただろうと推測された。
 実際、目的の山を目前にして登山中止を決意するのは、なかなか出来るものではないことは私にもよく解る。その意味でもこの事件はまったく他人事ではない。まさに山では生きるか死ぬかは紙一重であることを思い知らされた。配慮すべき点は配慮し、見直すべき点は見直し、十分に状況を把握した後実施に移すべきである。この警鐘は前向きの姿勢で謙虚に受け止めなければならない。今後の我々の登山活動に於いて、改めて再認識させられことを最後に記しておこう。
 
(1989.09.16〜17)
−終わり−