(総文字数 約6,700文字)

遙かなる山 かく語りき
(剱岳登山)
 
 「ヒィエ〜! なっなぁ!なぁ〜んてこったぁ!こんなことがあっていいのか!せめて、せめてあともう二〜三p、いやいやこの際一pでもいい この足がほんの少し長ければ・・・・」
 この時ほど短足のハンディをいやというほど思い知らされ、且つ情けない思いをしたのは、生まれてこのかたなかった。足をかけるにも直ぐそこの足場までどうあがいても届かない。目一杯、手と足を伸ばすのだが空しくただ宙を蹴るばかり。何とも無様な姿であろうことは容易に想像がつく。次から次へと鎖場が現れ、息つく間もなくただゼーゼーハーハー。ガスに覆われ視界はほとんどきかず、しかも冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。足元を見ると雨粒がヒューッと雲間に落ちていく。
 岩場は濡れて滑るし、さらに頼りとする鎖は最近架け替えたのかピッカピカのステンレス製。これが以外と細く、しっかり握っていないと手が滑りズズッーと落ちくれそう。悪いことは重なるもので、岩場はそうでもないが、鎖は氷のごとく冷えきっている。登山用の手袋を持っていないので(軍手は持っている)、素手でこの鎖をつかむしかないのであるが、手がかじかんでどうしようもない。
 今、私は『岩と雪の殿堂』という謳い文句で呼ばれている立山連峰剱岳(つるぎだけ、二九九八m)を、この悪天候の中、しぶとくも決死の覚悟で岩壁をよじ登っている。こんなことなら引き返すべきだった、何たる不覚!と悔やんでも後の祭り、もう登るしかない。実際今日の天候をみて中止した人もいるし、途中で引き返した賢明な者もいる。昨今の中高年登山ブームによると、自分の体力とか天候はそっちのけ、無謀な計画をたて遭難に至るケースが指摘されている。どうやら私もその例に洩れない最たる予備軍と言えよう。
 これまで黒部『下の廊下』をはじめ、北穂高岳〜涸沢岳、不帰ノ嶮(かえらずのけん)、八峰キレット、中央アルプス越百山(こすもやま)から伊那谷への下り(ほとんど廃道)、遠くは南米ペルー・インカ遺跡の山(道を間違え絶壁の旧道を辿った)、中国『黄山』(杭州又は南京からボロバスに揺られること丸一日、全山岩稜からなり正に山水画の世界)、近くでは徳島県境の石立山から高知県別府峡谷への下り等、いわゆる難所をこなしてきたが、いずれの時も天気は概ねよかった。だから今回も晴天であればこれほどの苦労はしなかったかもしれない。して何故(なにゆえ)にこのようなハメに陥ったのか?
 
 
 あれは忘れもしない今を去る三日前のことだった。かねてより悪友と計画していた紀伊半島林道バイクツーリングが、秋雨と台風により二度にわたり流れ、ついに中止となった。当時私は仕事が暇だったので急きょ立山登山を思い立ったのである。立山に決めた理由は、すこぶる交通のアクセスがよく、労せずとも楽々三千m峰迄到達できるからに他ならない。なお私事で恐縮であるが、八年前に心機一転脱サラをして現在女房と二人で設計事務所を細々とやっている。事務所は家の前にあるので通勤時間は約十秒。将来の不安もありまた安定した収入こそないが、何といっても自営は気安い。この気安さ(現代人にとって最も重要であるが極めて入手困難)を手に入れたと思えば多少の苦労も何のその。そこで『仕事がない』イコール即『休み』となる次第。
という訳で今回は登山では初の単独行と相成った。居座り台風一九号もやっと日本海へ抜けた九月一七日の夜九時半、我が家を出発。女房は完璧にどまくれ果て
「自分ばっかし遊びに行きまわってからに!今に天罰が下るよう呪ってやるぅ〜 フン!」
などと訳の分からないことを口走っていた。その見送りの言葉を背に、えっとぶりの山行にやや心はウカレ気味。齢(よわい)十年となる愛車ギャラン号にむち打ち、一路淡路経由、津名より淡路フェリーにて神戸を目指した。
 阪神高速を経て深夜の名神、北陸道を快調にとばす。しかしそれも敦賀まで。そこから先,福井県武生迄はトンネル工事とかでこの日に限り通行止めとなっており一般道へ降ろされた。なあに、夜中だから大して時間はかからないだろう、と思ったのは大間違い。国道八号線に入るやいなやトラックとトレーラーの大渋滞に巻き込まれてしまった。結局、武生ICに着くまでに二時間を要した。高速道ならほんの二○分で通過してしまう距離なのに。そもそもこれがつまづきの第一歩になろうとは、その時知る由もなかった。
 加賀を過ぎるころからポツポツと雨が降り始め、小松あたりで本降りとなった。富山に入ってから眠気も誘い一気に戦意喪失、めげ込んでしまう。スピードも四○〜五○キロスローダウン、八○キロぐらいでゆっくり立山に向かった。
 
 
 立山駅前大駐車場に着いたのは朝七時過ぎ。しばらく車の中でどうするか考えていたが、とにかく行けるところまで行こうと決定。車内で準備を整え、傘を差し重い足取りで駅に向かった。
 アルペンルート室堂ターミナルに着いたのは九時半、家を出発して丁度一二時間たつ。ここで焼おにぎり&チキンの詰め合わせ弁当とビールロング缶を買い込む。それからカッパを着込み、まずは一ノ越を目指し、雨のなか歩き始める。
 一ノ越から雄山(おやま、三○○三m)へ登る間にいつしか雨も小降りとなった。ここまで約二時間の行程。雄山山頂で一服している間に、時折雲間から室堂平方面が望めるようになった。次のピーク大汝山(おおなんじさん)へ着く頃にはすっかり快晴となり足取りもすこぶる軽く、闘志満々、登山気分は最高潮。
「ワッハッハッハ、天は我に味方せり!」
と歓喜したのも束の間、あろうことか、この頃から私は腹の調子が悪くなり、下痢に悩まされることになったのだ。稜線はぐるり見渡しても木や草は一本も生えていない。そこら辺で用を足すわけにはいかない。しかもここ立山は、日本を代表する霊峰でもある。信心深くない私でも、そんな罰当たりなことはとても出来ない。そのため楽しみにしていたビールと弁当は食べられなくなり、加えて水も控えめにして今日の宿泊先剣山荘(けんざんそう)へと急ぐ。
 家を出るとき女房の言った例の怪しげな言葉が思い出される。別に悪いものを食った覚えもないし、まさか本当に呪いが通じたのであろうか?『はて、面妖な?』などと呑気なことを言っている場合ではない。まったく女の機嫌を損ねると怖いと改めて実感。
 何とか持ちこたえて剱岳に最も近い山小屋、剣山荘に三時到着。一番乗りに手続きを済ませ、即トイレに駆け込んだのは言うまでもない。驚くべきことにここのトイレは水洗化されている。ご存じのように山のトイレは3K(きたない、くさい、くらい)が常識だ。日本アルプス方面へは三年間ブランクがあり、今回は四年ぶりとなるが僅かの間に変わったものだと感心しきり。あまりに快適?だったので三回ほど通う。
 さらに快適なことは、空いていたので個室を用意してくれたこと。十畳の部屋の片隅に布団を敷き横になって廻りを見渡すと、張り紙に定員二六人と書いてある。一体、どうやって寝るのだろうか?しきりに不思議がっている間に、いつのまにか眠り込んでしまった。
 夕食の案内アナウンスで目が覚め、ねむい眼をこすりながら食堂へ行く。宿泊者は十人ほどでなかなかの猛者ぞろいのように見受ける。そのなかの中年コンビが「どこから来てどこへ行くのか?」とひとりひとりに質問していた。そして必ず最後に剱岳に登るかどうかを問いかけていた。いちばん端に座っていた私までは残念ながら質問はまわってこなかった。
 
 
 翌一九日、突然朝が来た。それほど爆睡・・・もとい熟睡していたのだ。寒さでふるえあがる。天候曇り、濃いガスがかかり視界は極めて悪い。今にも雨が降りそうないや〜な天気だ。六時前に朝食。
 食後、くだんの中年コンビはやっぱり剱岳を登るかどうかみんなに聞いている。ついに私の所に質問が来たので「もちろん登ります!」と軽く返事しておいた。
 私が出発する時、中年コンビはラウンジでのんびりと美味そうにコーヒーを飲んでいた。彼らが登ったかどうかは以降まったく姿を見かけることがなかったので永遠に分からない。
 通常二時間三○分の行程を予定より三○分オーバー。這々の体でやっとこさ剱岳頂上に立つ。やはり誰も登っていなかった。一応、小さな祠前で記念写真を撮ったり、昨日の残りのジュースなどを飲んで三○分ほどくつろぐ。ガスに遮られ、依然視界は全く利かない。寒くなったのでそろそろ下山しようと思ったその時、ひとりのノッポの青年がやたら大きなバックパックを担いで登ってきた。
 それにひきかえ私のザック容量は三○リットルと小さい。当初五○リットルのザックを担いで登っていたものだが、小屋泊なら荷物は不要と気づき、今では最低限の装備しか持たない。新しもの好きで自慢好きでもある私は、衣類はゴアテックス、ダクロンQD等新素材で固め、その他小物は超コンパクトな新製品をズラリ揃えグラム単位で重量を切りつめた。カメラも重い一眼レフはやめにし、防水コンパクトカメラ一台に絞った。その甲斐あってディハイク並の軽さに押さえることに成功。ただし非常食、レスキューシート等不意の野営に必要と思われるものは携行している。
 一方、彼のザックは六○リットルでキャンプ用品一式を詰め込んでいるという。山に入って今日で一一日目とかで、うち天気はたった四日のみだったと嘆いていた。写真が好きで中判カメラで山の写真を撮っているという。私の風体をみていかにも頼りなく思ったのか、その青年は岩登りの基本を身振り手振りであれやこれや伝授してくれた。何か参考になることもあるだろうと一応フンフンと聞いておく。あまりに熱心に説明してくれたので「これはかたじけない」と厚く礼を述べ頂上を後にする。
 下山ルートは登りとは別になっており、登りよりはるかに難しい。しかし先ほど達人よりレクチャーを受けたばかりなのでその基本に忠実に従う。が、やはりホールドまで足が届きかねるところが多々あり冷や汗のかきっぱなし。最大の難関であるカニのヨコバイ(タテよりヨコに直角に曲がる箇所があり、どこに手をかけ足をかけていいか往生こく。必死だったので、どのようにやり過ごしたか覚えていない)、平蔵のコル(絶壁にかかる長大なハシゴとクサリはちょっとしたアクロバット)を越えると正直言ってやっと地球に生還したと思ったものだ。さらに鎖場は続くが、ここを過ぎるとあとは難しいところはない、と感じてしまう(実際は険しいのだが)。以降ガスの中、ルートを何度も見失いながらも何とか往路を引き返す。
 下るほど風雨が激しくなり、防水透湿のカッパを着ていても汗で全身ぐっしょり、足元もすでに水が入りコンディションも最悪。当初稜線伝いに剱御前も登る予定であったが、この雨の中登ってもしょうがないので山腹の巻き道を進む。途中風のないところを選び傘をさして昼食をとる。本日初めてのビールをグビッと飲むが寒さのせいで味はイマイチ。
 剱御前小屋へたどり着いたのは二時過ぎ。直ぐに熱いカップヌードルとお酒を頂く。これでやっと人心地ついた。さて、今晩の宿泊者は私ともう一人、月明かりで山の写真を撮るという山岳写真家志望の二人きり。
 
 
 翌日はうってかわって気持ちのいい秋晴れとなった。そよ風の吹くなか、屏風のようにそびえている剱岳を横目で見、左手には室堂平、弥陀ヶ原を見下ろしながら、また彼方に富山湾を眺めながらの快適な大日三山縦走路を辿る。このような素晴らしい眺望がタダとは、大自然に感謝しなければならない。なお、このルートは特に危ないところはなく、安心してハイキング気分を満喫しながらゆったりと歩ける。
 大日岳の麓(標高約一七○○m)に広がる大日平高原のほぼ端っこに位置する大日平山荘へは二時頃到着。早速一番にチェックイン。応対したここの主人は久しぶりの客だという。台風の影響で悪天候が続き、ここ一週間全く宿泊客はなかったらしい。であるから今日何日で何曜日なのかさっぱりわからなくなってしまった、とぼやくことしきり。ここでも個室をあてがってもらい一番風呂で汗を流す。
 ここにきてやっと携帯電話が通じるようになったので、さぞかし心配していることだろうと思い、家に電話を入れる。今までの山小屋にも公衆電話はあったのだが、テレカを持っていなかったので電話しなかった。テレカはウチの机の引き出しに何十枚もあるので買うのはもったいない、と意外なところでケチぶりを発揮する。さて、電話が通じウチのカミさん曰く
「アッラ〜 あんた 生きとったん?」
この意外ともいえる応答には、剱岳のことを思い起こせば妙に納得がいく。が、ここでひるんではならじと
「バ、バカタレ!死ぬまでは不死身じゃ〜!」
とワシはすかさず言い返したのであった。
 
 
 翌朝、見送ってくれた主人に丁重に礼を延べ、一番に小屋を出発する。所々池塘(ちとう)の広がる高原を木道に沿って三○分ほど歩くと大日平も終わり、そこからは急峻な山道となり一気に称名川へ下る。山歩き四日目ともなると足、特に膝が痛くガクガクになる。このような急斜面を下るのは、ことのほか足腰にこたえるものだ。しかし今回初めてショック付のストックを持参していたので、これが大いに役立った。下りばかりでなく無論登りにも重宝した。おかげで足の痛みはそれほどでもなく、効果のほどはバッチリ。
 小屋から二時間ほどで称名川に着く。直ぐ上流に日本一の落差を誇る称名ノ滝があるのでついでに見物する。バス停から立山駅へは一五分の距離。到着後マイカーの中で着替え、その後、立山駅構内のレストランへ腹ごしらえに行く。スペシャルランチ(どこがスペシャルなのか私にはトンと分からない)と勿論ビールを注文するのも忘れない。今回の山行では珍しくビールをあまり飲まなかったように思う。その遅れを取り返すべくグビリグビリとやりながらひとり物思いに耽る。
 
 人間たまには全てのことを忘れて、たったひとつのことに熱中するのもいいものだ。今回の剱岳のようにことさら刺激的な体験はクセになりそうである。登山は非常に疲れるしんどいスポーツであり,一歩間違えばあの世へ直行となるが、それを補ってもあまりある魅力がある。そして大自然と対峙する時,山は人生を語りかけたり、またともすれば常日頃忘れがちになっていることを問いかけたりする。もう一人の自分を見直す丁度いい機会でもある。
 山はよく人生にたとえられる。人の一生山あり谷ありという具合いに。実際、わずか1回の登山中に、体験すべきことは人生そのものであると言っても過言ではない。希望、歓喜、満足、苦しみ、疲労、落胆、焦り、恐怖など数え挙げればきりがない。これらひとの持っているありとあらゆる感情が、登山には凝縮されている。またこれほど感情が端的に表れるスポーツも他にはないだろう。事実、1回の山行でひとつのドラマが生まれる程、多種多様な体験をする。
 さらに山登りは相手が不要である。ひとりでも楽しいし、グループでもOK。思い立ったが吉日で、自分の都合・体力などに合わせていつからでもどこからでも始められる。そして大自然は、いつでも待ち受け魅了してくれる。生きてる内に少しでも多く登らなければ、損をするというものだ。
 思うに人の一生はあまりにも短い。反面、やりたいことはヤマほどある。出来ることなら、楽しいことで毎日を埋め尽くしたいと願うのは誰しも同じ。しかし現実は日々の生活に追いまくられ、つまらないことに関わされ、仕事とはいえやりたくもないことをやり、さらにたまの休暇も思うように取れずとなんとも厳しいことばかり。しかしこれが世の流れとあきらめていたのでは、押し流されるがままに何も出来ずに一生を終わってしまうのではなかろうか。人生は常に挑戦の連続であり、後戻りは出来ない。意義のある挑戦ならば、それが生き甲斐となろう。
 いつの間にか五○歳の大台も目前、ぐずぐずしている閑はない。私の場合、これまでまあまあ可能な範囲で好きなこと(旅、登山、スキーなど)をやってきた積もりだが、まだまだやりたいと思うことは山積している。そのうちのひとつでも多く実現できればそれでいい。これからも日々精進して参ろうか。それが可能なのもこれひとえに女房のおかげ・・・・としておこう・・・
 
 普段及びもつかない、とりとめもない人生論などを思い巡らすのも自然界の懐深く抱かれていると、おのずと心にゆとりが生まれるからか?などとホロ酔い気分で窓の外をぼんやり眺めているうちに、ビール二本を飲み干し三本目に手が届こうとしていた。
 
(1997年10月記す)
−終わり−