(第二部 約13,800文字)

運命の十字路

〜ある兵士の回想録〜

(満州・華中・朝鮮戦線)




第二部 華中・朝鮮戦線

(第一部より続く)


第三章 華中戦線
 
1 中国縦断、揚子江へ
2 華中戦線かく戦えり
3 マル秘の話
4 入院
5 中国一人旅
6 上海勤務
7 内地帰還


第四章 朝鮮戦線

《第2回召集 昭和20年4月16日〜昭和20年11月1日》

1 臨時召集
2 京城へ
3 朝鮮駐屯
4 敗戦
5 復員

参考:年号早見表




【 本 編 】


第三章 華中戦線
 
 
1 中国縦断、揚子江へ
 
 我が橋本中隊は深夜の行軍で千振駅に向かった。湖南営第三大隊は暗闇の中、貨車の軍用列車に乗車して一路揚子江(※注)、すなわち現在の長江沿いの町、浦口へ向けて出発した。深夜の千振駅とお別れして、遠い遠い旅路に就いた。
【※注:中国では「江」は長江を示し、「河」は黄河を指す文字である。】
 貨物列車は客車と違ってゴロ寝が出来るので、案外楽なものである。真夏でもあり両側の扉は開放されている。外の景色を楽しもうと思えば出来るが、大方の兵士は雑談をして退屈な時間を過ごしていた。
 列車は牡丹口、ハルピン、新京そして奉天を通過して大虎山に至り、ここで給水と石炭の補給を行った。長時間停車の後、やっと発車した。やがて姉が以前住んでいたことがある錦洲(チンチョウ)も過ぎて、山海関(シャンハイコワン)に一時停車した。七月十五日の昼頃であった。
 山を背に、海に面していることから山海関≠ニ呼ばれているそうだ。ここは満支国境でもあり、あの万里の長城≠フ東端にあたる所だ。俺は万里の長城を是非一目見ようと、貨車から首を長く伸ばして見渡した。しかし、何処にあるのかさっぱり分からず、しかも停車時間が短かったので、残念ながら見ることは叶わなかった。
 列車はこれより北支方面へ乗り入れ、ひとまず天津へ向かった。露天掘りの広大な炭鉱地帯を走り抜ける。その炭鉱の広大さ、また露天掘りの光景には正直面食らった。炭口、唐山(タンシャン)を経由して天津(テンチン)駅には夕方到着した。その夜は天津兵站(へいたん)宿舎に宿泊し、久しぶりに入浴することが出来た。
 翌朝再び同じ列車で、揚子江の渡船場に向けて出発した。済南(チーナン)、徐州、蚌埠(パンプー)を通過して目的地の浦口に着いたのは、深夜になっていた。その夜は浦口で露営となった。
 翌早朝、揚子江を渡し船で渡り、対岸の南京波止場に着いた。この渡し船は陸軍工兵隊の軍用船艇を使用している。工兵隊兵士が操縦して渡河任務に当たっている。着くなり待機中の揚子江遡航専用の輸送船に乗り込む。船は間もなく出航した。南京上流の揚子江輸送船も、工兵隊が運航している。
 上流に向かって行くにつれ、川幅の狭い所もある。夜間は航行を停止して川の中央に停泊、警戒兵が立哨している。停泊位置は日本軍の駐屯地に近い所で、だいたい決められているようだ。船は漢口(※注)に到着したが、手前の揚子(ヤンズ)波止場から上陸した。
【※注:現在の湖北省省都、武漢(ウーハン)。揚子江をはさんで広がる「武漢三鎮」と呼ばれる武昌、漢陽、漢口の三つの町が合併した。多大の損害を被り苦戦しなながらも、日本軍は昭和十三年十月に漢口を制圧した。漢口の街には、現在でもかつての租界時代の建物がそのまま残っている。】
 我々兵隊は、軍用物資の陸揚げ使役にこき使われて、休む暇もない。荷揚げが終わると中隊は直ちに列車(貨車)に乗り、考感という駅で下車した。中隊は考感の町中の廃屋で仮宿泊することになった。土間にアンペラ(ござ)を敷いて起居していたが、じっとしていても汗が噴き出してくる。暑くて暑くて我慢できない数日間を過ごした。
 やっと応城(インチョン)という所に向かって出発する日がきた。我々兵隊は暑いのを我慢して黙々と行軍を続け、日暮れ時に応城に到着した。ここには前部隊の一部が残留しており、やはり廃屋にて共同で仮宿する事になった。数日後、前部隊撤収完了に伴って、我が第九中隊は兵舎に移った。
 応城はこの地方では最大の町で、人口も最も多い。城内には兵団の司令部があり、憲兵隊もある。兵舎には大隊本部も置かれている。なお、第十中隊は連隊本部のある徳安(トーアン)に駐屯し、第十一中隊は安陸方面に駐屯している。第九中隊の人員は少なく、その上一個小隊は黄灘団の部落に分化されていた。そんな訳で我々は、部隊衛兵、城門衛兵、第一野戦倉庫衛兵、第二野戦倉庫衛兵、橋梁衛兵などの衛兵勤務ばかりに明け暮れる日々だった。
 八月のある日、山下奉文師団長の初度巡視護衛のため、一個小隊が応城警備隊から派遣された。俺はその護衛兵の一員として、随行することになった。巡視はまず最初に徳安を経て安陸、そして雲母、最後に湯池に至るというコースであった。この湯池は温泉場であり、ここで一泊。一同休養をして翌日応城に帰着した。ちなみに中国は日本に次いで温泉場が多いということだ。
 
2 華中戦線かく戦えり
 
 昭和十五年九月、湖北作戦すなわち新四(しんし)軍(共産党軍)を殲滅させんがための討伐戦が開始された。満州での敵はもっぱら匪賊であったが、ここ中央戦線での主な敵は中国共産党の紅軍(※注)となった。蒋介石率いる中国正規軍の国民党軍は重慶に本拠地を移し、なりを潜めていた。このころ国民党軍と中共軍は対立しており、たびたび衝突していた。
 連隊長の陣頭指揮の元、湖北省を中心として共産軍撲滅作戦が展開され、各地で戦闘が行われた。俺は軽機関銃射手として作戦行動に従事していた。
【※注:中国工農紅軍が正式名称で、国民政府軍に属し新四軍又は八路軍と称した。新四軍は上海・武漢を活動範囲としていた。八路軍は主に華北でゲリラ線を展開した。のちに中共軍の通称ともなった。】
 昭和十五年十二月一日、俺は陸軍兵長に進級した。
 翌十六年一月、河南省を主舞台に、師団が総力を挙げて大規模な豫南作戦が展開された。南から中支軍が北上し、北から北支軍が南下しての広大な行動範囲に渡る新四軍壊滅作戦である。
 我々応城の中隊は行軍にて徳安に赴き、そこで連隊主力と合流、京漢線の鉄道線路沿いにさらなる行軍を重ね、信陽(シンヤン)目指し前進していた。信陽で露営して翌日再び進軍を続けた。
 信陽を出発して間もなく、明交(ミンコー)の部落に差しかかった時、突然敵の一斉射撃を受けて戦闘になった。相手は事前に日本軍の進撃を予測していたのかトーチカ、塹壕に立てこもっており、守りはすこぶる頑強である。歩兵部隊ではこれ以上前進することも後退することも不可能となった。少しでも頭を持ち上げようなら雨あられの如く銃弾の嵐が飛んでくる。どうやら敵の思うつぼに陥ったようだ。強行突破すれば多数の犠牲者がでるのは目に見えてる。
『もはやこれまで!我が命運も尽き果てたか>
俺はこの時、もう終わりかも知れないと観念した。
 数時間も銃撃戦が続き、現場は膠着(こうちゃく)状態に陥っていた。やがて到着した野砲隊の支援射撃と戦車隊の敵陣攻撃が開始された。これで幾分か敵の銃撃も衰えてきたので、日没前に我が中隊は敵陣地に一斉突入した。生き残りや敗走する敵兵を射殺して、やっと陣地を制圧した。この戦闘で我が中隊は船越伍長(下士候出身)戦死、今村上等兵が腰部貫通の重傷、また機関銃中隊長戦死、他の中隊も相当の犠牲者が出た模様である。
 その夜は近くの部落に入り、民家にて仮宿した。この日は敵前で釘付けになっていたので、昼食はとっていなかった。全員腹ぺこ状態だったので、差し出された飯ごう飯をがむしゃらに食べた。腹が減っていたのと九死に一生を得て命拾いしたせいもあり、まだ興奮冷めやらぬ状態であった。この飯は初年兵が炊いてくれたものだが、何やら黒っぽい色をしていた。近くの池の水を汲んできて炊いたと言う。妙な味がするなと思いながらも、そう大して気にも留めずに一気に平らげた。
 明くる朝、顔を洗おうとその池に向かったところ、腰を抜かさんばかりにぶったまげた。何と!その池には犬、猫、ねずみなどの腐乱死体がプカプカ浮いており、ドス黒く銀色に汚れた汚水そのものだった。よくもまぁこんな水で炊いた飯を食ったものだと、この時改めて戦場の怖さ悲惨さを、身を以てつくづく感じた。
 ある日、南陽の市街地攻撃目標特定、敵状の偵察及び渡河点捜索等のため、西川准尉を長とする斥候隊が組織された。軽機、擲弾筒から選抜された兵士に加え、無線機一機配属の計十三名からなる偵察隊だ。
 隊は夜中に中隊野営地を出発、京漢線に沿って北上した。昼間は物陰に隠れて仮眠をとり、夜間に行動を起こす。次の夜、大きな城壁に囲まれた、とある町に接近した。城門に敵の歩哨がいるかどうかを確かめようと、秘かに近づいて行った。その途端、敵に発見されて、城門の櫓からいきなり小銃の乱射を受けた。西川准尉が咄嗟に
「逃げろ!」
と発した。我々は暗闇の中を死にもぐるいで一目散に逃げた。
 安全と思われる地点で一時停止、ハァ〜ハァ〜ゼェ〜ゼェ〜喘ぎながらも直ちに人員点呼を行う。一名が大腿部に銃弾を受けていた。負傷者が出たので遠くに逃げられず、取りあえず円陣を張って警戒に当たる。警戒兵が四方に配置され様子を伺っていた。
 周囲を警戒していると、敵が我々を包囲し、ジリジリと接近してくる気配を感じた。脱出の突破口を開くため、擲弾筒を次々に発射。
「撃ち方止め!」
の号令と同時に、我々は負傷者を抱えて走りに走って、畑の中のある一軒家に辿り着いた。
 中は真っ暗だったので、誰かがマッチの火を点けて内部の様子を探る。原綿倉庫と判ったので、出ようとして着火したマッチの軸を何気なくポィッと投げ捨てた。ところが床に落ちていた綿に、たちまち燃え移ってしまった。アッという間に炎は燃え広がり、一面火の海と化した。暗闇に高く炎を上げて燃え盛る火事は壮観の極みで、これには敵もビックリ仰天した事だろう。だが、これで我々の居場所を突き止められたので、更に逃げ続けた。幸い追っ手にも気付かれず、やっとの思いで村はずれにある一軒の空き家に侵入、その夜を明かした。
 無線連絡がうまくいったのか、翌朝騎兵隊が救援に駆けつけてくれた。我々は無事その場から撤退することが出来た。かの負傷兵は戸板を利用した間に合わせの担架に乗せて、野戦医療隊より派遣された衛生兵に引き渡した。
 我々はまだ斥候任務が残っていたので、再び攻撃目標の南陽前線に舞い戻った。昼間は低地に隠れ、日没と同時に行動開始。遂に敵陣深く潜入して南陽市街近郊の河川を一望できる高台に進出を果たした。市街地の状況、河川の地形、渡河地点等を偵察、任務遂行に尽力した。所定の行動を全て終え、進撃してくる部隊本部に報告後、中隊と合流した。
 昭和十六年三月、俺は子供の時分よりずっと憧れていた憲兵を志願した。応城憲兵分隊に於いて、学科試験終了後に憲兵分隊長より一人ずつ面接試験を受けたが、結果は不合格となった。後に大阪のおやじからの手紙で知ったのであるが、勝山通りの自宅に大阪大手前憲兵隊の憲兵伍長が身元調査に来たらしい。しかしこの時、自分が憲兵を志願したことを通知していなかったので偽軍人と勘違いし、おやじは承諾書に押印しなかったようだ。
 橋本中隊長転出により、後任として山本大尉が着任した。この頃、俺は黄灘団分化隊に派遣されていた。ここはかなり大きな村落で、警備上重要拠点となっていた。ほぼ一個小隊の兵力で分化しており、部隊衛兵の勤務以外は中隊本部との連絡使役に出るくらいで、平穏で気楽な兵舎暮らしであった。地域の自治委員会の親善招待で、町の飯店で豪華な中華料理をご馳走になったこともあった。
 この勤務中に黄灘団近くのチャオイー湖の小島を拠点として出没するゲリラ討伐のため、水上討伐隊に参加した。この辺りは揚子江が造った大小の湖沼が点在し、また中州も数多くある。隠れ家とするには最適の地域である。
 ゲリラとは新四軍便衣(べんい)(※注)隊のことであり,人民とまったく同じ服装で活動する。任務遂行の後、民衆の中に紛れ込んでしまえば、もう発見することは不可能だ。このグループには男も女もおり、スキあらば日本軍に奇襲をかけていた。殺害、放火、鉄道の爆破等、我が軍を混乱におとしいれ大いに悩ました。それ故、軍も必死になって便衣隊のアジトを捜索していた。その神出鬼没で大胆な行動は、匪賊となんら変わるところがなかった。
【※注:「便衣」とは中国人の普段着、平服を意味する。中国兵、特にゲリラ兵を便衣兵と称した。】
 深夜、工兵隊の小型船艇に分乗して湖中を捜索、敵を包囲殲滅する作戦であった。どういう訳かいずれの時も蜃気楼の如くもぬけの殻で、ゲリラはすでに逃走した後ばかりだった。作戦はどうやら筒抜けだったようで、連日空振りに終始した。結局、敵と何ら交戦することなく引き揚げざるを得なかった。派遣期間は約1ヶ月で、アッという間に過ぎてしまった。
 森本中尉指揮による一個小隊の編成で、夜間討伐に出動した。酒造工場を包囲して一気に突入したが、またもや中はもぬけの殻だった。どうやら今回も敵は日本軍の動きを事前に察知していたようだ。
 また湖の対岸に村落があるが、そこにいる敵を殲滅すべく出動した。夜間、漁船数隻に便乗して秘かに対岸に接岸、急襲を図った。しかし、ここでも敵は早々と退散、徒労に終わった。日本軍の動きを逐一探るスパイが、軍と内通していたのかも知れない。
 
3 マル秘の話
 
 そんなある日の夕方、突然、新四軍便衣隊討伐のため非常召集がかかった。西川准尉を長とする一個小隊の編成で応城の町を駆け足で出発した。段々畑のあぜ道を一列縦隊になって、夜間強行軍をしていた。
 その隠密行動中、前方の暗闇で人の足音がした。咄嗟に下の畑に飛び降り息を殺し身を潜めていると、一人の男が近づいてきた。第一分隊長が小銃を逆手に持って殴りつけると、男は奇声を発して横っ飛びに一目散に逃走した。その直後、前方より銃の乱射を受けた。
「軽機兵!前へ!」
との号令で、俺は小隊の先頭に躍り出て応戦、機関銃を暗闇めがけて撃ちまくった。夜間の機銃発射は、銃口から発する火花で眼前が照明弾か花火の如く明るくなる。
 しばらくすると敵方からの射撃が止んだので、小隊長は敵が退却を始めたものと判断し、擲弾筒を連射させた。間髪入れず進撃を始めたが、敵と遭遇することなく夜が明けてしまった。さらに付近をくまなく捜索を続けたが、何ら敵の痕跡を発見出来なかった。
 帰途、交戦した現場を調査したところ一軒の民家があった。どうやら敵はこの民家を本拠地としていたらしい。我々が敵に発見され応戦した場所から20mも離れていなかった。
 俺が撃った軽機関銃の弾痕は、全て軒から上の屋根に残っていた。すると銃口は上向きになっていたことになる。それは何故か?ここで俺は咄嗟に小隊長に釈明、苦しい言い逃れをした。あまりにも近接戦であったため、銃口が自然に上を向いてしまったのだと。
 今だからこそ小声でこっそり言えるが、真実は次の通りである。テレくさい話であるが、実は恐怖心のあまり頭隠して腕だけを上に伸ばして、ただ闇雲に撃っていただけなのだ。そのため銃口が上向きになってしまった。正面切って敢然と敵に立ち向かって狙い撃ちする様は、やっぱりあれは映画だけの世界だ。訓練ならいざ知らず、実戦では危なくてとてもそんなことが出来る訳がない。俺としてはやるだけの事はやった、と今ではひとり納得している。
 
4 入院
 
 昭和十六年九月、第三次長沙作戦に出動することになった。俺は津野准尉を小隊長とする第三小隊の連絡係(分隊長待遇)を務めていた。応城を深夜に出て、夜間行軍にて連隊本部のある雲門に翌朝到着。連隊本部の出発まで、現地集結地である河川敷で野営、待機することになった。
 到着した日の昼頃、時間があったので俺は河原で洗濯をしていた。その時支那人の婆さんが、油で揚げた自家製の饅頭のようなものを売りに来た。甘いものに目がない俺は、即刻その饅頭を三個買ってその場でムシャムシャと平らげた。
 ところが翌日、三十八度以上の高熱が出て、下痢、おう吐を催した。部隊の出発日も近づいたが、この状態ではとても行軍に耐えられない。そこで軍医の診断を受けたところ、直ちに漢口の病院に入院せよとの指示が出た。先発設営班のトラックに便乗させてもらい、漢口の兵站病院(田村病院)に入院した。
 約一週間に渡る検査の結果、A型パラチフスと診断され、伝染病棟の隔離病室に収容された。どうやらあの婆さんの饅頭が原因で食中毒に罹(かか)ってしまったようだ。暑い時期だったので傷んでいたのだろうか?それともあの饅頭に故意にパラチフス菌が混入されていたのか?どうやら後者の可能性が高いように思われた。というのもこのころには中国軍による細菌テロの可能性が指摘され、警戒を強めていた矢先だった。井戸に毒物を投げ込んだり、酒保の販売菓子に亜ヒ酸を混入したり、コレラ菌を西瓜や真桑瓜に注入したり、ヒ素を湯沸釜に入れたりと様々な被害が報告されていた。
 絶食が数日間続いた後、粥汁、三分粥、五分粥、七部粥、全粥、そして通常食と段階的に食事量が増やされた。元気を回復するにつれ、今度は腹が減るのを辛抱する日々が続いた。若い頃故、空腹を我慢するのはとても辛く、これには全く閉口した。そんな退屈な病院暮らしの後、やっと退院命令が出たのは二ヶ月後だった。
 退院後、直ぐに原隊復帰とはならず、まず退院者収容訓練所に入所さされることになった。退院者ばかりの一団に交じって、武昌郊外にある武漢大学構内の宿舎に移送された。
 毎日、規律正しい日課と体力増進目的の訓練が、約3週間続いた。この訓練を終え、やっと晴れて原隊復帰が許される。ひとまず漢口の兵站宿舎に入舎して、応城行きのトラック連絡便を待ってた。
 夜間の冷え込みが厳しく、俺は少々風邪気味であった。その時の風邪が充分直きらないまま、中隊に復帰した。中隊は田店鎮に移動、そこで駐屯していた。
 復帰後も発熱が続き、しかも病み上がりで体調もまだまだ充分ではなかった。軍医の判断で遂に応城の野戦病院(三瓶病院)に入院することになった。この入院中に近藤准尉のお見舞いを受けた。近藤准尉は初年兵の時から大変良く目をかけてくれていた。何でも大阪の歩八連隊(中部第二十二部隊)に転出の道中に、わざわざ寄り道して立ち寄ってくれたのだ。
 その後診断を受けた結果、今度は漢口第二十四野戦病院に転送された。病名は急性気管支炎であった。この病院では偶然にも兄の小学校同級生である小川松吉と同部屋となった。
 昭和十六年十二月八日、漢口第二十四野戦病院にて大東亜戦争勃発を知らされた。病院内も慌ただしい緊張感に包まれ、急に退院者が多くなりだした。俺も間もなく退院、原隊復帰となった。
 第四師団は大本営直轄部隊として上海に移り待機中であった。そこで揚子江を下って上海まで一人旅をしなければならなくなった。直ちに漢口船舶司令部に出向き、乗船申し込みをした。しかし、おいそれとは直ぐに乗船許可の順番が廻って来るはずもない。許可が出るまでしばらく待たなければならなくなった。
 兵站病院(田村病院)退院時に支給された給料も乏しくなった。何か対策を講じなければならない。そこで退屈しのぎも兼ね、『ひとつ商売でもやってみようか!』と思いたった。
 田村病院内の売店でタバコを仕入れ、それを難民区の支那人に売りに歩くのである。一ヶ所で大量に買い込むと怪しまれるので、他に漢口の軍人会館でも同様にタバコ、マッチを仕入れた。俺の目論見は見事的中。このにわか素人商売はすこぶる好評で、飛ぶように売れた。そんな軍人らしからぬ日々を過ごしている内に、やっと乗船許可が下りた。
 
5 中国一人旅
 
 漢口渡船場から無事乗船を果たした時、ヤレヤレと安堵し胸を撫で下ろした。船内での退屈しのぎにと、軍人会館で菓子類をたんまりと買い込んでおいた。無論、商売の売上金で。俺の背嚢は菓子でパンパンに膨れ上がっていた。そんな訳でのんびりと休養を兼ねた、数日の楽しい船旅を満喫出来た。
 やがて南京埠頭に接岸、ここから徒歩にて南京駅に至り、上海行きの列車に乗った。列車内は支那人の乗客で満員だった。しばらく一緒に乗っていたが何となく薄気味悪いので、乗客をかき分け日本軍人の居る傍らに寄っていった。
 夕刻、上海北駅に到着。兵站宿舎の所在が分からないので、停車場司令部に聞きに行った。宿舎は新興街に在り、今ならまだバスの最終便に間に合うと教えてくれた。夜九時頃やっと宿舎に到着、部屋の割り当てを受けた。
 翌日、早速上海の船舶司令部に出頭し、乗船の申し込みをした。中隊は揚子江対岸の南通(ナントン)に駐屯している。南通に行くには天生港行きの連絡船に乗船しなければならない。天生港行きの船は、黄浦江に面する黄浦(ホアンプウ)公園の埠頭から出ている。黄浦公園は中山東路沿いの外灘(ワイタン、通称バンド)北側に位置している。
 上海では下調べや乗船割り当ての許可の日程等で数日間滞在した。その間、街頭とかで憲兵や巡察将校の尋問を度々受けた。
 夜更けに黄浦公園埠頭から乗船した。支那人の船客は皆船底に押しやられ、ギュウギュウのすし詰め状態であった。幸いにも俺はデッキの二等船室に案内してくれた。
 翌朝天生港に着いたが、港とは名ばかりで接岸できる岸壁など無く、伝馬船が送迎するお粗末な港である。しかし検問所があり、上陸客は一人一人厳重な取り調べを受けなければ通過できない。
 目的地の南通まで揚子江沿いに歩き、やっとの思いで原隊復帰を果たした。漢口から上海まで約一二○○キロ、この長い一人旅もここでやっと終結した。
 
6 上海勤務
 
 年が明けて昭和十七年一月、上海憲兵隊南市憲兵分隊の補充憲兵として、分隊長前田軍曹の一個分隊に派遣された。憲兵の腕章を左腕に着けて、憲兵に同行して巡察したり、その他留置場衛兵や部隊衛兵、分遣所衛兵等の勤務がある。点呼は簡単で食事や入浴は、自分の都合の良い時に出来る。誠に気楽な兵隊生活を送り、憲兵隊は良い所だと思った。憲兵になり損ねたのが、実に残念でならなかった。
 一月のある日、松川上等兵が強姦罪で憲兵隊に逮捕された。その日、領事館巡査がゲリラ隊に暗殺されるという事件が起こった。憲兵隊は直ちに現場周辺の地域一帯を封鎖、補助憲兵全員は要所要所歩哨に立った。交代要員なしの立哨勤務であった。その歩哨勤務中に、松川上等兵は強姦したとのことであった。即刻逮捕され、憲兵隊留置場に入れられた。近い内に陸軍刑務所に送られるとのことであった。
 連隊はフィリピン戦線に派遣されるため、揚子江河口に位置する呉淞(ウーソン)〔現在の宝山〕に集結した。南市憲兵隊に勤務していた者も全員部隊に合流するため、呉淞の兵舎に集結した。この兵舎にて待機中、隣接地の兵舎に第四連隊野砲兵が集結していると聞いた。この隊には青年学校同期生の小野が所属しているはずなので、俺は早速面会に出掛けた。彼は下士官志願をして、軍曹になっていた。
 
7 内地帰還
 
 昭和十七年二月、幸か不幸か、俺は南方送りとならず、内地帰還となった。ちょうどこの時タイミング良く、昭和十三年度徴集兵は四年の軍隊生活を終え、満期除隊が決定したからだ。この頃、戦局が相当拡大してきたので、満期除隊は無いだろうと思っていた事もあり、この決定は意外なものであった。
 軍隊を去るのは、少々残念に思えた。何故なら四年間も軍隊に居ると、その生活にも相当馴染んできて、要領も会得している。加えて華中戦線“明交の戦い”では少しばかり危険な目に遭遇したが、それ以外では大した戦闘も経験していない。軍隊生活も捨てたもんじゃない、と思い始めていた。内地に帰ったところで、これと言って取り立ててやる目的もない。さらに俺は次男であるので家を継ぐこともない。しかも、この時点では南方戦線の厳しさ恐ろしさなど、これっぽちも予想し得なかったのだ。だから『南方へ派遣されてもいいなぁ』と、ある種の願望さえあった。
 そんな訳で嬉しいような、反面、嬉しくないような、何か後ろ髪を引かれるような複雑な気持ちを胸に抱きながら、俺は呉淞港より内地帰還船に乗船した。
 当初平穏な航海が続いたが、対馬海峡に入り玄界灘に差しかかる頃から船は大揺れとなり、食事どころではなくなった。頭を持ち上げることすら出来ず、終日船室で寝たきりで過ごした。生まれて初めて船酔いの苦痛を嫌というほど味わされた。
 広島港の宇品沖合にある似島陸軍検疫所に上陸。入浴中に被服装具等の身の回り品を完全消毒される。湯上がりに畳敷きの部屋で、お茶の接待を受けた。この時、これでやっと内地に帰ってきたのだ、という実感がじわぁ〜と湧いてきた。
 宇品上陸後、広島駅まで徒歩行軍した。ここより国鉄にて大阪駅に至り、やはり徒歩行軍にて中部第二十二部隊(歩兵第八連隊)第一大隊の兵舎に入った。ここで満期除隊の諸般の手続き等を済ました。
 二月十日、無事、晴れの満期除隊となった。おやじが出迎えに来てくれていた。帰りに軍装品店に立ち寄り、在郷軍人用の軍服を買った。この頃には生活必需品に至るまでほぼ全て切符制が導入されており、何を買うにも"切符"が必要だった。衣服を買うには当然"衣料切符"が必要なので、それ以外の無用の買い物は出来ない。四年ぶりに勝山通り2丁目の懐かしい我が家に帰って来た。
 
 若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、もしもあの時実際に、願望通り南方戦線に派遣されていたら、俺の運命はどのようになっていたであろうか?無事生還出来ただろうか?今思えば、あの時こそ正に“運命の十字路”であったのだろう。
 
 
 
第四章 朝鮮戦線
 
 
 
《第二回召集 昭和20年4月16日〜昭和20年11月1日》
 
 
1 臨時召集
 
 昭和二十年四月十三日、俺はこの頃、京都のとある機械製作所に勤務していた。三時をすこし回った頃、工場の機械を整備中に家内より臨時召集令状を受け取った。仕事の都合上直ぐに帰れなかったので、終業時間まで従事し、その夜自宅に帰った。
 四月十六日、親戚近所の人達の見送りを受けて自宅を出発、定刻までに中部第二十二部隊に入隊した。点呼を済ませ、中隊の編成、軍装品の支給の後、仮兵舎となっている大阪府立聾学校まで徒歩行進で向かった。
 
2 京城へ
 
 四月二十一日、いよいよ京城(ソウル)へ向けて出発する日がきた。部隊から大阪駅まで市中を行進した。夕刻大阪駅を出発、翌朝門司に到着。ところが輸送船の都合により下関に引き返し、市内の旅館に分宿、待機となった。
 深夜、出動命令により慌ただしく旅館を出発。対岸の門司に渡り、門司港岸壁より輸送船に乗船、夜明け前に出航した。対馬海峡航行中は、敵潜水艦に対して厳重警戒体制を執っていた。
 対馬付近を過ぎる頃、俺は船底にある船室からこっそり抜け出し、甲板に出た。監視兵に見付からないよう注意しながら、救命用ボートの被いカバー隙間から中にもぐり込み、釜山沖に近づくまでそのままボートの中に隠れていた。
 船室は兵隊で足の踏み場もないほど満員だったし、しかも階段は僅か一ヶ所のみ。これでは非常の際、避難が困難であろうことは容易に想像できる。もし敵潜水艦の魚雷を一発でも見舞われば、一溜まりも無く沈没する。ここは用心するに越したことはない。なお、ボート内は思いの外あんばいが良く、しかも安全なので一石二鳥。我ながらなかなかの名案であった。
 幸い何事も起こらず、夕方無事輸送船は釜山港に入港、上陸後釜山駅まで徒歩行軍した。その夜は駅構内の列車内で宿泊、翌早朝釜山駅を発車して、京城に向かった。
 
3 朝鮮駐屯
 
 京城の朝鮮第二十二部隊の兵舎営庭に集結、編成作業が行われた。俺は護朝第22503部隊第三大隊第三挺進中隊第二小隊に配属され、第二分隊長の任を命じられた。
編成は次の通りとなる。
中隊長:安田中尉、第二小隊長:吉井少尉、
第一分隊長:平田伍長、第二分隊長:小川兵長、第三分隊長:足立兵長
 京城の練兵場にて挺進行動の基礎訓練が始まった。大本営から派遣されている参謀将校の指導の下、分隊長以下四〜五名からなる少人数の編成ごとに行われた。敵前警戒線への潜入他、兵舎、弾薬集積所、砲兵陣地等重要施設の爆破行為、挺進斬り込み隊のゲリラ活動による敵陣後方攪乱など各種の基礎訓練が連日続いた。
 五月十五日、海岸線陣地構築のため部隊の移動があった。第二十二部隊の兵舎を出発、京城駅より鉄路にて大田,益山を経由して全羅北道井邑(チョンウフ)駅下車、夜間行軍にて茂長面に至った。準備のため同地の小学校に一時駐留した。
 俺はここ茂長面役場にて電話当番に従事した。自分を含め、兵一名、朝鮮人青年一名の計三名による、二十四時間の電話当番交代勤務であった。
 その朝鮮人青年から「今夜、近所の知人宅で法事があるから一緒に来ないか?」と誘われた。俺は興味があったので早速法事に参列することにした。歩哨線を無事通過して、秘かにその知人宅を訪れた。朝鮮の法事は、親戚、近所、知人とか大勢の人達に集まってもらい、一晩中賑やかに過ごすらしい。俺もご馳走を振るまってもらい、マッコルリ(どぶろく酒)を頂いた。お陰で珍しい体験をさせてもらった。
 中隊は山中に移動して、米軍上陸阻止のため海岸線防禦陣地構築作業が始まった。俺は兵舎他必要施設建設作業に従事した。一応の完成後、第二分隊は陣地作業隊となった。連日坑道掘削作業に当たり、発破による土石搬出作業に従事した。
 六月十日、陸軍伍長に任官された俺は、陣地建設に必要な技術講習会に中隊代表として派遣され、多忙な日々を送っていた。主な講習会は次の通り。
@ダイナマイト発破取扱安全技術講習会
A坑道支柱設定技術講習会
Bコンクリート打設技術講習会
 八月八日、ヤルタ協定によってソ連が参戦を決定、「日ソ中立条約」を破棄して対日宣戦布告をした。翌日、ソ連軍は満州と北朝鮮に進攻を始めたらしい。これを撃退すべく応援部隊として、出動応急派兵の動員令が発動された。中隊は緊急出動態勢を完了したが、待機命令により現地で待機体制をとっていた。
 
4 敗戦
 
 昭和二十年八月十五日、夜間点呼の時、安田中隊長から緊急の訓示があった。内容は、今日の正午ラジオ放送にて、天皇陛下がポツダム宣言を受諾して、日本が無条件降伏をしたことを全国民に対して宣言した。そして陸海軍も天皇陛下の命令により戦闘を停止、武装解除せよ。今後の行動は指示に従うように、とのことであった。
 明治四十三年(1910年)以来、日本の植民地として朝鮮を支配・統治してきたが、この日を以て終わりを告げた。大都市では解放を祝う群衆で沸き立ち、目抜き通りでは「解放万歳!」「独立万歳!」を叫びながらデモ行進が行われたようだ。
 一方で大本営は、連合国に明け渡すまで朝鮮は日本の支配下にあると厳命した。朝鮮総督府は警察力による規制を行った。これは在留日本人に対する朝鮮人の報復を恐れていたためだが、実際に危害を加えられたことはほとんどなかったようだ。
 このことは同様に国民党政府、中国共産党及び中国人民にもあてはまる。降伏した日本軍人に対して、きわめて人道的な取り扱いをしている。戦犯以外の普通の兵士は強制労働をさせることも無く、順次帰国させる方針を実行した。これに対してソ連は数十万の捕虜をシベリアに連行、過酷な強制労働に従事させた。何とも対照的な出来事である。
 中隊は陣地作業所を急ぎ撤収してトラック輸送にて井邑に引き揚げ、井邑警察署の武道場にて仮宿した。
 この時,新泰仁の朝鮮人不穏分子が蜂起して新泰仁巡査駐在所を占拠したとの情報が入り出動。一応不穏分子を解散せしめたが、駐在所警備のため自分以下兵三名が残留し、警戒に当たった。なお、この地は全州(チョンジュ)及び奥地山岳方面への交通の要衝にあり、日本人も多数入植していた。
 水力発電所で上流にダム湖がある南朝鮮発電会社警備のため、我が吉井第二小隊は奥地のジョーキョリ面の巡査駐在所に起居して警備隊として従事した。
 中隊の内地復員が開始されたのに伴い、師団司令部のある井邑警備隊要員として第二小隊が選出され、井邑市街の仮設宿舎に派遣された。各中隊から派遣された兵士達と共に合宿起居する。師団の余剰軍用品倉庫(弾薬、兵器、被服、衛生材料等を収容)の衛兵勤務を、米軍の先遣隊兵士と共同で行った。
 
5 復員
 
 十月三十日、師団の復員業務完了により残留警備隊にも復員命令が出された。警備隊の宿舎を撤収して井邑駅より貨車に乗車、一路釜山へ向けて出発した。
ルート:井邑→大田→大邱→釜山
 貨車の中で一夜を過ごし、翌朝釜山埠頭で米兵より所持品検査を受けた。その後復員船に乗船。同日午後四時過ぎ博多港に上陸した。所定の手続きを経た後、それぞれの故郷に向けて自由解散となった。
 翌日、俺は博多駅より超満員の列車に強引に乗り込んだ。岡山で宇野行きの列車に乗り換え、最終の宇高連絡船に飛び乗り高松へ渡った。同夜は高松駅構内で一夜を過ごし、翌朝ごった返す超満員の徳島行き列車に乗車した。
 車窓から見る徳島はかっての面影はなく,見るも無惨に一面焼け野原の焦土と化していた。徳島市は去る七月三日の深夜から4日未明にかけて、大空襲を受けていた。米軍爆撃機B29の大編隊が飛来し、焼夷弾を雨あられの如く投下したと云うことだ。
 徳島駅からひとつ先の二軒屋駅で下車。ここよりおよそ1時間の所にある山あいの静かな村里、八万町長谷へとテクテク歩いて向かった。昭和二十年十一月一日、家族の疎開先である佐藤方の納屋に無事帰還を果たした。
 
 俺が派遣されたのは朝鮮南部であったが、もしもあの時、朝鮮北部に派遣されていたらどうなっていたであろうか?事態は全く違った方向に向かっていたに違いない。恐らくソ連軍に拘留され、そのまま捕虜としてシベリア送りになっていた筈である。俺の居た井邑地域は、何の戦闘も行われず平穏そのものだった。しかも運良くアメリカ軍の支配下に置かれたので、このように早期に無事帰還を果たせたのだと思っている。この時、ここで生死を分ける生涯二度目の“運命の十字路”を通過したことになる。
 十字路を司る女神様は、俺に味方して再びニッコリ微笑んでくれたのか?しかし、これ以降現在に至るまで、窮地に陥っても二度と微笑んでくれようとしない・・・いやいや、そのように解釈すべきでない。ものの見方をちょいと変えればいいのだ。平々凡々たる生活こそ,幸せと言えるのかも知れない。そう考えて日々コツコツ人生を歩まなければ、いつか罰が当たるに違いない・・



−終わり−




 
  《年号早見表》









 
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