(総文字数 約51,000文字 第二部 約39,200文字)
 
カトマンズ急行

第二部 大陸横断編

− Kathmandu Express Vol.2 −
 
 
はじめに
(“はじめに”は第一部と同じ内容です)
 
 1972年,22歳の春,私は2年間勤めていた会社を退職した.そして5月16日,横浜港よりソ連船ハバロフスク号に乗り込み,シベリア経由でヨーロッパに旅立った.当時,ヨーロッパへはこのシベリアルートが最も安価で,且つ共産圏であるソ連を見られるとあって,若者達にすこぶる人気があった.もっとも私の場合,全線シベリア鉄道を利用した訳ではなく,ハバロフスク〜モスクワ間は空路を選んだ.モスクワからはヘルシンキ,ストックホルム,ウィーンへの3コースがあったが,フィンランドは当時ユーレイルパス(EURAILPASS,欧州均一周遊券)が使用出来なかったのと,まだ寒かろうという理由で,南方のオーストリア・ウィーンコースをとった.
 ウィーンを出発点にファーストクラス,3ヶ月間有効のユーレイルパスをフル活用して,ヨーロッパ13ヵ国を鉄道で旅した.TEE(ヨーロッパ国際特急),IE(インターナショナルエクスプレス),IC(インターシティ),TALGO(タルゴ,スペインが誇る軌道幅可変・振り子式列車)は言うに及ばず,ローカル線に至るまで寝る間も惜しんで乗りまくり,ほぼ隈無く走破した.その他パスが使用出来るバス路線・定期船も積極的に利用した.
 また宿代と時間を浮かす為,夜行も頻繁に利用した.例えばフランスの場合,地方都市から一旦パリに戻り,すぐに夜行で別の地方都市へ向かうといった具合に.ただし,寝台列車は別料金が必要だったので,僅か2回しか乗っていない.そのうちの1回は,あの月桂樹と獅子のエンブレムで有名なワゴン・リ社(Wagons-Lits,国際寝台車会社)の寝台客車に,鉄道ファンの端くれとして一度ぐらい乗らなければお話にならないと思い,無理して大枚をはたいた.なおヨーロッパの鉄道,特にファーストクラスはほとんどコンパートメント形式なので,空いていれば横になってグッスリ寝られる.とにかく,ケチに徹して旅を続けた.私のケチの習性は,どうやらこの頃身に付いたのかも知れない・・・


 
 パスの有効期限が切れる直前,8月21日,ベルギー国境に近いフランス北部の町,ダンケルクにやって来た.この町はドーバー海峡に面し,第2次世界大戦の激戦地として知られている.ここのユースホステルを探すのに苦労した記憶が,おぼろげながら今も残る.フランス語ペラペラのカナダ人(公用語が英語とフランス語なので当然であるが)旅行者を見付け,後ろにくっついて無事到着.ユースは町はずれの海辺にあった.道理で分からないはずだ.なお,カナダ人は皆カナダ国旗をバックパックに縫いつけていたので,一目でそれと判る.聞くところに依ると,海外を旅する若者には全員,国旗を配布してくれるということだ.
 ダンケルクでしばし骨休み.2日後,午前9時30分のバスでカレーへ.この町にはフランスが生んだ天才彫刻家,ロダンの最高傑作のひとつでもある「カレーの市民」像が市庁舎前に建っている.まず彫刻像の見学を済ましてから,ほど近くにあるホバーポートへ歩いて向かった.イギリスへはフェリーで渡ったのではなくホバークラフトを奮発した.ホバーロイド社が運行する英仏間連絡のホバークラフトは,ロールスロイス製3,400馬力のガスタービンエンジン4基を搭載し,乗用車からバスまで乗せることが出来るほど巨大だった.当時世界最大のホバークラフトと言われ,以前より一度は乗ってみたいと思っていた.

 <カレーのホバーポート>

 

イギリス
 
 所要時間40分でイギリス,ラムスゲートに上陸.連絡列車に乗りロンドン,ヴィクトリア駅に午後4時着.すぐにユ−スホステルへと落ち着いた.イギリスでは約3週間滞在し,スコットランド,湖水地方(レイク・ディストリクト)をヒッチハイクも交えてぐるっと廻った.行き先を紙に大きく書き胸にかざしていると,待つ間もなく気軽に乗せてくれた.最長記録は,ケンダル(イギリス中西部の町)から2台乗り継ぎ高速道路M6の入口まで行き,そこでロンドン行きの乗用車を掴まえ,一気にロンドンまでヒッチしたことがある.
 しかし常にこのようにうまく事が運ぶとは限らない.ネス湖に近いインバネスの町はずれでヒッチしていた時のこと.車はたまにしか通らない.1時間ぐらい粘っていたが,どの車も知らん顔.そこで歩きながらヒッチすることにし,車が通るたびにサインを出したが全然ダメ.しばらくそうやって歩いていたが遂に諦め,目的地まで歩くことに決めた.ネス湖湖畔に沿って一日歩いていたら,ひょっとしてモンスターを目撃出来るかも知れない,と秘かに期待を抱いたからだ.そしてインバネスからフォート・オーガスタスまで24マイル,38.4kmを歩き通した.足を棒にしてユースホステルに辿り着いた時刻は午後8時過ぎ.結局モンスターも現れず,晩飯にも有り付けず,散々な一日であった.翌日,ユース前でヒッチしてたら待つ間もなくワゴン車が停まってくれた.ドライバーはドイツ人旅行者だった.
 イギリスはヒッチハイクの易しい国と聞いていたが,これは大筋で合意出来る.噂通りイギリス人は親切で礼儀正しく,身なりはきちんとしている.田舎の小さな食料品店のオヤジさんでさえ,ネクタイをきっちり締めていた.私の体験からすれば,他にドイツ人も親切な印象が強い.道を尋ねても丁寧に教えてくれる.一方,イタリア人は愛嬌があり,陽気で面白いが少々うるさい.フランス人は無愛想で素っ気ない.無論,愛想のよい人もいたが少ない・・・ピレネー山脈を越えて一歩スペインへ入ると,ガラッと雰囲気が変わる.概してスペイン人は小柄で黒髪の人も多く,日本人にとっては親近感が持てる.
 
 イギリス旅行中は“フィッシュ&チップス(Fish & Chips)”を好んでよく食べた.これは白身の魚を天ぷらに揚げたものに,細切りのフライドポテトを添えてある.好みに応じてマヨネーズをかけて食す.移動販売車とか屋台で売られており,お持ち帰り専用だ.あっさりした味であり,安くて美味くてその上歩きながら食べられる.フランスでも似たようなものがあったが,フィッシュでなくてソーセージであった.ポテトチップスとかフライドポテトが日本に上陸したのは,それから何年も後のことだった.
 イギリス滞在中に今後の旅行について,あれやこれやいろいろ思いを巡らし,熟慮に熟慮を重ねた.アメリカ経由で日本へ帰るか,または南米へ渡るかなど.所持金もこのころだいぶ心細くなってきたこともあり(これが最大要因!),インド・ネパール経由で日本へ帰国することにした.このルートが最も安あがりで面白いと思われたからだ.ロンドンからカトマンズまで列車やバスを乗り継ぎ,全行程陸路で踏破することに決定!
 
 ロンドンに戻って早速,新たなる旅立ちの準備を始めた.まず最初に靴屋へ行き靴を新調することにした.靴は既に2足履き潰していた.安物の靴を購入したにも拘わらず,店員は丁寧に応対してくれた.その靴を履き向かった先は大手旅行代理店トーマス・クック社.ここで旅行小切手250ドル分(1ドル≒300円)を買い足す.現金だけでは物騒だからだ.所持していた残りの日本円は全てドルの小額紙幣に換えた.中近東方面ではなにかと小額紙幣が必要となるからだ.さらに旅行者の間ではつとに有名な「クックの時刻表(COOKS CONTINENTAL TIMETABLE)」も忘れず購入.このコンパクトな時刻表は,ヨーロッパは基よりソ連,中近東,北アフリカ,北米,中国まで網羅されている.列車だけでなく主要なバス・船の時刻まで掲載されている優れもので,以降の旅で大いに役立った.これ一冊あれば世界中を旅出来る,と言っても過言ではない.
 帰りがけクック社の係員に「Are you happy?」と聞かれた.意図する意味がはっきり解らなかったが,「I'm very happy.Thank you!」と答えておいた.次いでヴィクトリア駅へと足を運び,アテネ行(1ヶ月間有効)の切符を購入.出発日を3日後と決めたので,その間ソールズベリーにある先史時代の巨石遺跡,ストーンヘンジを見学することにした.

《9月9日現在の所持金:930ドル+1万円》
 

オリエント急行
 
 9月11日月曜日,ロンドンヴィクトリア駅15時5分発のオリエント急行(DIRECT-ORIENT EXPRESS)に乗り込む.当時のオリエント急行は小説や映画に出てくるような豪華列車ではなく,完全な生活列車であった.恐らく東欧・中東諸国の出稼労働者が利用していたのだろう.ルートはフランス→スイス→イタリア→旧ユーゴスラビアと通過し,ユーゴスラビアの首都ベオグラードでイスタンブール行(MARMARA EXPRESS)とアテネ行(ATHENS EXPRESS)に分かれる.もう一本,パリよりドイツ→オーストリア→ハンガリーを経由してルーマニアのブカレストへ至るオリエント急行もあった.ダイレクトと言っても同じ列車で走る訳でなく,イギリスの列車はドーバー海峡が終点.フェリーには乗客のみが乗り,フランス側カレー駅で待機している車両に乗り込むという訳だ.イギリスの列車は屋根が低く小つぶで荷物の置き場に困ったものだが,ヨーロッパ大陸の列車はゆったりしている.
 

 <ダイレクト・オリエント急行>

 23時頃パリ北駅到着.列車は北駅からパリ・リョン駅へとゆっくり移動した.北駅とリョン駅が線路で繋がっているとは知らなかった.と言うのはパリには駅が7つもあり,それぞれ行き先が異なっている.旅行者にとってはこれが面倒でありややこしい.各駅間を地下鉄(メトロMetro)で移動しなければならないからだ.なお,ヨーロッパの主要な駅はたいていこのような終着駅方式となっており,それぞれの駅により行き先が異なるので要注意だ.
 翌日8時30分,スイスのマルティニ駅で途中下車した.あらかじめクックの時刻表で調べておいた9時発の登山電車に乗り換え,フランス側のシャモニー・モンブランへ向かった.フランスでは約4週間滞在したが,ついにシャモニーを訪れる機会がなかったから.7〜8月はバカンスの時期でもあり,シャモニー行の夜行列車はいつも満員で予約も取れなかった.
 
 2日後,私はスイスのグリンデルワルドにいた.スイスは既に6月と8月に延べ2週間ほど滞在したことがある.しかし,モンブランやシャモニー針峰群をボォッと眺めている内に,もう一度どうしてもスイスアルプスを見たいという念がこみ上げてきた.そこで急きょ予定変更して,スイス入国となった次第である.雨が降ったりしたせいもあり,当初4〜5日と予定していた日数をオーバーして10日間も居着いてしまった.髪もヒッピーみたいに伸びていたので,また今後散髪する機会はないと思い,カンダステークという小さな町の床屋(要予約)へ入った.ドイツ語で「クルツ(Kurz,短く)シュナイデン(schneiden,切って),ビッテ(bitte,頂戴)!」と言って,髪を思いっ切り短くバッサリと切って貰い,心身ともリフレッシュ!旅行中散髪をしたのは,7月中頃ケルンで,9月初旬スコットランドでの計3回のみ.うちスコットランドでの散髪は自分で適当に刈った.

 <カンダステーク>

 
 9月24日,イタリア・ミラノ中央駅で13時55分発のオリエント急行を再度キャッチ.駅で買っておいた“駅弁”を早速車内でひろげパクついた.駅弁はフランスにもあったが,イタリアの駅弁が安くて豪華なのである.パン,ソーセージ,チーズ,デザート,菓子類など,それにワインがセットされ紙袋に入れて販売されていた.
 
 翌日8時45分,ユーゴスラビア・ベオグラード着.ここでも途中下車することにし,直ちにユースホステルへと向かった.宿泊費は少々高いが,設備は良い方だ.
 荷物を置き即刻,市内見物に出発.ドナウ川を見下ろす小山に建つカレメグダンの城塞を見学後,ベンチで一服していると足元で何かが動いている気配がする.覗き込んでみると何と!リスがウロチョロしていた.この国のリスは人を全く恐れていないようだ?!城塞公園には広葉樹,つまり木の実が豊富で,どんぐりとか栗などいっぱい落ちていた.それにしても誰も栗を拾って食べないのだろうか?もったいない!帰りがけ,デパートをちょっと覗いてみた.まぁまぁ品揃えは豊富.ここで電池カミソリ及びトランジスタラジオ用の単三電池を購入.
 
 9月26日,午前9時発のアテネ急行(ATHENS EXPRESS)に乗車するため早めに駅にやってきたが,出発は約1時間30分遅れとなった.イタリアまでほぼ定刻通り発着していたが,ユーゴスラビアに来ると急に遅れが目立ち始めた.
 

ギリシャ(その1)
 
 列車は翌日正午頃,約3時間遅れでアテネに到着した.この日は疲れていたので,ユースホステルでのんびりと過ごした.
 アテネでは為すべき重要案件が3つあった.ひとつ目は学生証の取得である.アテネでは比較的簡単に発行してもらえるという情報を入手していた.学生証は今後,切符の購入等に不可欠となるからだ.ふたつ目はチフスの予防接種である.接種は日本で受けて来たが既に期限(有効3ヶ月と思う?)が切れていた.ギリシャでは外人でも無料で予防接種をしてくれると云う.なお,コレラの予防接種は7月にパリで受けていた(これも無料).当時はイエローカード(予防接種証明書)に接種済みの記載が無ければ,入国出来ない国もあったから注意が必要だった.3つ目の目的はイランとアフガニスタンのビザを取得すること.しかし,翌日は木曜日だったので,パルテノン神殿を見学することにした.何故なら木曜日は入場料が無料となっていたからだ.
 
 翌金曜日,早速学生証取得の手続きから始めることにした.東京にある某工業大学の英文在学証明書のコピーは,既に手に入れていた.これはヨーロッパ旅行中にユースホステルで知り合った,ある日本人旅行者から貰ったものだ.まず,別の用紙に自分の名前とか必要事項をローマ字と英語でタイプする必要があった.これは日本大使館に赴き事務官に頼み込むと,用紙も準備してくれて快くやってくれた.次にゼロックスのコピー屋を探さなければならない.「コピー屋は何処にあるか?」と道行く人に聞いてもなかなか理解してもらえない.散々苦労の末,やっとコピー屋を見付けることが出来た.
 在学証明書の所定の位置に,先ほどタイプした用紙を破りとって置き,その用紙の縁が写らないよう濃度を調整して何枚か焼いて貰った.そこの女子店員が,ゼロックスのコピーは“フォトコピー”と言うのだよ,と教えてくれた.ともあれ,作成した学生証のコピー用紙を学生協会の事務所へ持参した.手数料さえ払えば,いとも簡単に国際学生証(I.S.I.C)を発行してくれた.早速この学生証を持ってエジプト航空の支店へ直行.アテネ〜カイロ間の往復切符を50%オフの学割で購入出来た.早くもその御利益の程を実感.しかしこれら一連の手続きだけで,丸一日を費やしてしまった.
 
 次の日,ふたつ目の重要案件である予防接種をするため,アテネ国立病院へ出掛けた.申請書にチフスの予防接種と記入したのに,担当の医師は何を勘違いしたのかコレラの注射を打ったのだ.間違いに気付いた医師は,やおらチフスの注射を取り上げ,立て続けに私の腕に刺した.いくらタダとは言え,される方はたまったものでない.特に注射だけは,ご免を被りたい.病院を出てくるやいなや,何だか気分がすぐれず,次第に全身が気だるくなって頭痛までしてきた.この後,郊外のコリント遺跡へ行く予定にしていたが,とてもそんな気分になれず,あきらめてユースへ帰った.その日はおとなしくずっと寝ていた.
 ギリシャではレストランのことを“タベルナ(TAVERNA)”という.テーブルにつきいざ注文しようとしても,ギリシャ文字で書かれたメニューは,チンプンカンプンでさっぱり理解出来ない.そこで店の大将に頼み込んで,厨房へと案内して貰う.そこで実際に自分の目で確かめて,料理を注文する.これがタベルナでの賢い注文法だ.屋外にあるブドウ棚の下で食べれば,異国情緒満点.しかし,どの料理もオリーブオイルたっぷりで,私の口にはあまり合わなかった.
 

エジプト
 
 10月2日深夜,アテネ空港よりエジプト・カイロへ向かって,エジプト航空機(United Arab Airlines)で飛び立った.この機は貨物機に椅子を取り付けただけ,という感じのプロペラ機で,やたら騒音がひどく振動も激しかった.座席下に置いたバッグ内のカメラボディのビスが緩んだほどだ.カイロ空港午前2時30分着.エジプトへビザ無しで入国するには,80米ドルを両替しなければならない.貧乏旅行者にとって,これは手痛い出費であるがやむを得ない.再両替は出来ないので,出国するまでに使い切ってしまわなければならない.
 夜が明けるのを待つため,待合室ロビーで座っていると,ホテルの客引きがやって来た.時間潰しとカイロ事情を得るため,その客引きのジイさんといろいろ話をして過ごした.結局,学割を適用してくれるという話がまとまったので,ジイさんに連れられてカイロ市内の安ホテルにチェックイン.朝食付一泊350円と馬鹿に安い.
 荷物を置き落ち着く間もなく,早速念願であったギザ(ギゼー)のピラミッドへ乗合バスを利用して出掛けた.郊外に出るとまもなく,バスの車窓より遙か遠方にピラミッドが霞んで見えた.遂にここまでやって来たという実感が,じわじわと湧いてきた.
 バスを降り,クフ王のピラミッドの横を素通りし,まずスフィンクスから見学.確かにナポレオンが放った砲弾で鼻が欠けているなぁ,などとひとり頷き,納得しながらピラミッド方面へ歩き始めた.ゆっくりと時間をかけて,ピラミッド周辺を念入りに廻って見物する積もりでいた.ところが歩き始めると,私の周囲にラクダ引きが何人も近づいてきて「ラクダに乗れ!」としつこく勧誘され続けた.最初は面白いと思っていたが,入れ替わり立ち替わり何人も来るとうっとうしくなる.この客引きをかいくぐって進むのには少々疲れる.以下,ラクダ引きのセリフを紹介しよう.カタカナで表している部分は,実際に日本語で喋っていた.ブロークンな英語も混じっているが,聞いたそのままを以下に記す.
 
 「チョット,マッタ,マッタァ!ミスター,ミスター!ジャポネ?グッド!ウェルカム カイロ!」
(まずこのように呼びかけ,ラクダ引きが近づいてくる)
 「Do you need horse,camel? No?」
(必要ないと断っても決してあきらめない)
 「ミスター,ミスター! Litsen! Do you know how much? 25pt(ピアストル) ニッポンヤスイ! OK? No!?」
(それでも要らないと断ると,戦術を変えてくる)
 「Student? Oh! Lucky! Student half price! 15pt・・・OK・・・10pt・・・Finish!5pt! No? サイナラ!」
(やっとあきらめて立ち去っていく)
《※参考:当時の通貨レート/1エジプトポンド(LE)≒460〜470円
    1エジプトポンド=100ピアストル(pt)》
 
 どのラクダ引きも似たような内容の“口上”で攻めてきた.アラブ社会ではとにかくふっかけてくるので,必ず三分の一以下に値切るのが常識だそうだ.うるさいパパラッチのようなラクダ引きが居なければ,毎日でもピラミッド見物に出掛けたいのだが・・・
 カイロのバスは傾いて走っている.市内を走るバスは全て超満員で,片方の出入り口付近に乗客が何人もはみ出して,ぶら下がっているからだ.中には走っているバスを追いかけ,窓とか後部にしがみつく強者もいる.あの例の頭からすっぽりかぶるアラブ服に草履を履いているにも拘わらず,何とすばしこいことよ.大した運動神経だと,驚きと共に感心.
 カイロはアフリカ最大の都市だけあって,夕方ともなると祭りみたいにどっと人が繰り出し,喧騒のるつぼと化す.あまりの人の多さに,前へ向いて歩くこともままならない混雑ぶりだ.しかし,耳を澄ませばイスラム教の聖典であるコーランがどこからともなく聞こえてきて,イスラム情緒はたっぷり堪能出来る.イスラム社会であるからアルコール類は禁止のはずだが,エジプト製のビールが売られていた.試しにサッカラビール(銘柄名)を飲んでみる.その味たるやとても褒められたものでなく,“馬の小便”という表現がピッタリ当てはまる.
 2日後ホテルからユースホステルへ移った.一泊75円.ホテルでは有用な旅の情報が得られないからだ.ユースのすぐ近くに日本大使館があり,館内の図書室では日本の雑誌や小説,それに新聞が閲覧出来た.カイロタワーとカイロ博物館を見学し,アスワン行の切符を買った以外特に何をするでなく,3日ほどブラブラ過ごした.
 10月8日日曜日,意を決して朝一番,再びピラミッドへ行くことした.今度は目的を絞って,ピラミッドの頂上に登ることにした.ピラミッド周辺をうろついていると,すぐさまそれらしきガイドが近寄ってきた.と言っても公式なガイドでなく,抜けでやっている私設の“自称ガイド”だ.この頃,頂上に登ることは既に禁止されていたようだ.交渉の末,やや高いがガイド料2ポンドを支払い,最大のクフ王のピラミッドへ.2m以上もある大きな石は避けて,小さな石積みとか欠けている所をガイドの後ろについて登って行く.やはり登りやすいルートはあるようだ.建造当初146mあった頂上は現在崩壊して欠けており,約9m低くなっている.頂上は約10m四方ぐらいの平坦な広場みたいになっており,中央部には石組みが残り,その上に角材で櫓が組まれていた.

 <ピラミッドの頂上>

 突然,ガイドが身を隠すよう指示した.見下ろすと真下の道を警官が歩いている.この後ガイドの態度が豹変.ポリスに捕まりたくなかったら「追加料金を出せ!」「ドルを出せ!」「サングラスをくれ!」などと要求しだした.「2ポンドも出しているからそれ以上は出さない!」と断るとガイドは何やら文句を言いながら,逃げるように一目散に降りていった.ひとりポツンとピラミッド頂上に取り残されてしまった私は,一気に不安に襲われた.
『もしやこれはファラオの呪いでは!?』
 気を取り直し冷静に考えた末,反対側の人気の少ない方へ,ほぼ稜線に沿って降りることにした.勿論,ポリスに最大の注意を払ったのは言うまでもない.無事砂漠の土を踏みしめた後,残りのカフラー王とメンカウラー王のピラミッドを,じっくりと写真を撮りながら見て回った.今回はちょっと観光コースを外れたせいもあり,ラクダ引きはおろか観光客にひとりも出会わなかった.帰る頃にはピラミッドに夕陽が射していた.
 ユースに帰るとすぐさまカイロ中央駅前のホテルエベレストへ移った.明日の早朝,アスワン行きの列車に乗るためだ.
 
 今日はアスワンへ旅立つ日だ.7時30分発のアスワン行きに乗り込む.この列車はリクライニングシート,エアコン付のエジプトが誇るデラックス特急である.昼食と夕食は食堂車へ行くか又は席まで運んできてくれる(50〜60pt).ナイル川に沿って南下することおよそ880km,午後11時過ぎにアスワンへ着いた.深夜なので取りあえず駅前の安ホテルにチェックイン.
 翌朝,ホテルをチェックアウト後ユースホステルに移った.精力的に直ちに観光に出発.まずはナイルの船遊びから始めよう.帆掛け船チャーター料は3時間で1ポンド50.ところが日が昇り時間が経つにつれ,じわじわっと暑さが襲ってきた.おまけに風がそよとも吹かなくなり,船は停止したまま.さらに水面からの照り返しも加わり,暑いことこの上なし.頭も痛くなりついに辛抱たまらず,早めに切り上げてユースに帰って寝ていた.
 ユースの近くに高級リゾートホテル,アブシンベルホテルがある.ロビーはクーラーがよく効いているので,ここで今後の旅の計画を練ることにした.10月とは言え,この暑さは半端ではない.道理で外を眺めても人影は見当たらない.日中は多分,涼しい木陰で昼寝でもしているのだろう.活動出来るのは早朝か,陽が落ちてからに限られる.人というもの,暑くなると途端にやる気をなくし,ぐうたらになることが,この時,身をもってよ〜く分かった.一度座り込むと涼しいロビーから立ち去る気がせず,カフェのジュースなど注文して1日の大半を過ごした.
 
 当時アスワンまで訪れるバックパッカーは少なく,ユースホステル内の部屋はがらんとしていた.ある日の昼下がり,私はひとりベッドに寝そべって小説を読んでいた.読んでいた本は松本清張のミステリー小説「連環(れんかん)」.これはアテネで日本人旅行者から貰ったもので,いままで暇な時にちょくちょく読んでいた.時間もたっぷりあるので,この際一気に読み終えてしまおうと思い,ゆっくりページをめくっていた.小説でも映画でも佳境に入ると,自分もその世界に入り込むものだ.私も完全に物語の展開に引き込まれてしまった.まるで時空を超えタイムスリップしたかのように,時間の経過も分からず周囲の物音も耳に入らなかった.どのくらい経ったであろうか?突然,ハッと我に返り,辺りを見回した.一瞬訳がわからずキョトンとしていた.何故なら今の今まで,自分はてっきり我が家で本を読んでいるものとばかり思っていたのだ.自宅の2階でそのように寝そべって,よく読書にふけっていたから・・・しばらく魂が抜けたようにベッドの上で茫然自失,それから一気に落ち込んでしまった.
 その後ホームシックにかかり,無性に日本に帰りたくなった.私がホームシックにかかったのは,ヨーロッパに来てせいぜい1〜2週間ぐらいの時のみ.それ以来さして帰りたいと思わなかった.たったあれだけの些細な出来事で,自分の中にこんな気持ちが芽生えたのは不思議なことである.ひょっとしてあれは「天の啓示」だったのか?昼間はすっかり忘れてしまっているが,夜寝床に入ると,どうしょうもなく望郷の念がこみ上げてきて,意志に反して涙があふれそうになった.人間とは如何に弱いものなのか!遙か遠く日本を離れた異国,エジプト最果ての地にたったひとり.故郷への道のりはあまりにも遠い.果たして無事,日本へ辿り着くことが出来るのだろうか?熱かったせいもあるが,以降しばらく私は熱にうかされたように息苦しい夢をよく見た.その都度うなされ,寝付けない日々を送った.そして無意識に旅を急ぐようになっていた.なお,この思い出深い「一冊の本」はカイロに戻った際,日本大使館の図書室へ寄贈した.
 
 早朝,ツーリスト・オフィスへ出向き午前の部(8時30分発)のアスワンハイダムと郊外の遺跡ツアーを申し込んだ.ところがあいにく人が集まらず中止となった.午後の部は,まだ暑い盛りの3時からである.一瞬ためらうが,これを逃せば一生見る機会はないと考え,参加することにした.ついでに明日のアブシンベル神殿ツアーも申し込んだ.ヒマなのでそのままオフィスで座って観光パンフレットを見ていると,係員のニイチャンが傍へ寄って来た.日本について様々な質問を投げ掛けてきた.かなり日本に興味があるようで,「是非日本へ行きたい!」と言っていた.セイコー,ソニー,ホンダについても詳しく聞かれた.
 午後3時のツアーには私を含めて計7人が集まり,2台のタクシーに分乗.そのタクシーにはクーラーは付いていないので,当然ながら窓を全開にしていた.郊外に出て砂漠に入るや,突然,やけどをするかと思うほどの熱風が頬に当たり,度肝を抜かれる.一同,慌てて窓を閉めたのは言うまでもない.閉めるとそれなりに蒸し暑いが,この場合,閉めた方がはるかにマシなのだ.灼熱の砂漠を歩くのは,まるで焼けた鉄板の上を歩いているという表現がピッタリ合う.足元の地面から熱気がムンムン上がり,頭はクラクラ.しかし,ひとたび太陽が沈むと急激に気温が下がる.砂漠とはこういうものだ,とこのツアーは教えてくれた.
 
 アブシンベル神殿へのツアー集合時間は午前4時,場所はアブシンベルホテル.ところが目が覚めたのは午前4時10分.
『オ〜!マイゴッド!寝過ごしてしまったぁ!』
身支度もそこそこに大慌てでホテルへ走って行くが,時すでに遅し.ピックアップ用のマイクロバスは既に姿がなかった.このツアーは一週間に二回,火曜と金曜しか催行されておらず,万一乗り遅れると万事休す,打つ手無し.その場に呆然と立ちすくんでいると,ホテルのボーイが出てきた.事情を話すと親切にもタクシーを呼んでくれた.その黒人ボーイとは2日前に顔見知りになっていた.ボーイにチップも渡さず,しかも礼を言うのも忘れて,タクシーに飛び乗りアスワンハイダム上流の船着き場へ飛ばした.既に乗船を開始している最中であり,名簿を確認していた係員は,「どうやって来たのか?」と驚いた様子で尋ねた.
 アブシンベルはアスワンの南約280km,ほとんどスーダン国境に近い辺鄙な場所にある.現在は空港もホテルも整備され行きやすくなっているようだが,当時は水中翼船が唯一の交通手段だった.ハイダム建設によって生まれたナセル湖を片道4時間30分かけて水中翼船で遡って行く.神殿はユネスコの援助により,湖を見下ろす丘に移築されていた.外はうだるように暑いが,神殿内は冷んやりとしていたのが唯一の救いだった.
 ほぼ12時にアブシンベルを出発.船内はクーラーを効かしているが,だんだん暑くなるばかり.背中はもう汗びっしょり.しかもアスワン到着まで,何故か6時間近くを要した.アスワンのツアーはどれもハードであった.
 
 10月14日土曜日,朝5時30分の特急でアスワンから220km北のナイル東岸の町,ルクソールへ.11時にユースホステルにチェックイン.ここまで来るとやや暑さが和らいできた感がする.それとも暑さに慣れたせいか?気をよくして早速ユースでレンタサイクルを借り,王家の谷へ向かう.王家の谷はナイル西岸(西ルクソール)の不毛の砂漠,すなわちテーベの丘にある.ナイル川に架かる橋はないので,渡し船に自転車を乗せて渡らなければならない.西岸は東岸とはうって変わって静かな田園地帯だ.貧しい地元民の家が,まばらに点在するのみ.時たま出会うのはロバと牛と荷車,それに土産物を売りに来る子供達ぐらい.自転車で廻るにはまことに都合がいい.
 王家の谷のハイライト,ツタンカーメンの墓を見学後,田舎道をチンタラと鼻歌交じりで自転車を漕いでいた.すると後方で数人の子供達が「ミスター!ミスター!」と叫びながら追いかけてきた.みんな粗末な服を着て,しかも裸足だ.手には土造りの像とか石とか遺跡のかけらを握っている.そんなものは要らないので,私はペダルを漕ぐ足に思わず力を入れて,子供達を引き離そうとした.それでも彼らはあきらめずに,息を切らせながらも追いかけてくる.すでに50mぐらい引き離しただろうか.確認のため後ろを振り向くと,それでも彼らは走り続けていた.
 ユースに戻って落ち着いて思い起こすと,なにやら悪いことをしたような気分になった.彼らは日々の暮らしのため,必死で土産物を売っているのだろう.たとえ僅かでも,彼らにとってはまたとない貴重な現金収入となる.金持旅行者とか団体客はバスとかタクシーを利用して観光するので,ターゲットは自ずとレンタサイクル利用の我々貧乏旅行者となる.熱帯夜のせいもあり,その夜はなかなか寝付けなかった.
『よし,明日会ったら何か買ってやろう』
 翌日,再びレンタサイクルを借り,王家の谷にあるハトシェプスト葬祭殿方面に出掛けることにした.昨日ユースで知り合った日本人といっしょに,二人連れだって出掛けた.彼はリッチマンなのか,オープンチケットの世界一周航空券を持っていた.この次はイラクのバグダッドへ飛ぶ,と言っていた.
 王家の谷入口にあるメムノンの巨像前で,お互いに記念写真を撮りあった.葬祭殿は立派だったが,その前に陣取っている土産売りがうるさかった.なお,道順が違うからだろうか,昨日の子供達とは遂に出会えなかった.

 <ルクソールの子供たち>

 
 10月16日,10時10分発の特急でカイロへ.カイロ到着21時.ユースホステルへ直行.翌日,エジプト航空のオフィスへ出向き,アテネ行きの便を予約.出発は21日に決めた.その間,イランとアフガニスタンのビザを取ることにした.アテネでは結局取得する間がなかったからだ.
 まずイラン大使館へ行きビザの申請をすると,先にアフガニスタンのビザを取ってくるように言われた.そこで大使館前にいたタクシーをつかまえ,アフガニスタン大使館へ.申請後その場でパスポートにスタンプとサインをして,即座に発行してくれた.直ちにイラン大使館へとって返し,手続きする.ビザ発給は明日になるという.アラブの国であるからもう少し日数がかかると思っていたが,思いの外迅速に事が運んだ.
 ビザ取得以外これと言ってすることもなく,ヒマを持て余していた.日本大使館の図書室に通ったり,JALの閲覧室で日本の新聞を読んだり,ユースでごろ寝したりして,ただぼんやりと出発日の21日まで過ごしていた.ユースに泊まっている他の旅行者達も,みんなブラブラしていた.当初は地中海沿岸のアレキサンドリアでも行ってみようかと意気込んでいたが,周囲ののんびりとした雰囲気に呑み込まれ,いつしかそんな気も失せていた.ヨーロッパではあれほど毎日意欲的に動き回っていたのに・・・
 
 10月21日,今日はアテネへ出発する日だ.両替した金を使い切るため,中華料理店で肉うどん,肉まん,それに餃子を食った.その後バスで早めに空港へ.17時,再び騒音と振動の激しいプロペラ機に乗り込み,アテネへ飛び立った.乗客は僅か7人.
 

ギリシャ(その2)
 
 アテネは大雨に見舞われていた.ずぶ濡れになりながらユースホステルへ辿り着いた.
 翌日はすっきり快晴となった.もう三度目となるが,パルテノン神殿を見学することにした.その後中央郵便局へ行き,フィルム6本を航空便で家へ送った.ヨーロッパの主要都市にはJALの支店内に,富士フイルム専用のポストが設けられていた.専用封筒にフィルムを入れて投函すれば,現像・プリントに仕上げて家まで送ってくれるという,便利なオートデリバリーサービスがあった.残念ながらアテネにはなかったようだ.
 
 トルコのイスタンブール迄,陸路で行くか又は空路で行くか迷っていた.ギリシャの地図を見れば分かるように,陸地はエーゲ海,マルマラ海をぐるっと大きく回り込むようにトルコへと続いている.直線距離の数倍もあり時間がかかり過ぎる.ちなみに鉄道ならば約36時間かかり,運賃は11米ドル.一方,飛行機なら1時間弱,運賃は42米ドル.これだけで判断するなら,やむなく鉄道をチョイスするところだ.しかし,話は最後までよく聞いてみないと分からない.ユースで仕入れた情報によると,学割を効かせば何と60%オフ!16.77米ドルで購入出来るという.何もかたくなに陸路にこだわるほど石頭ではないので,トルコ航空の支店へ直行.
 

トルコ
 
 10月24日,トルコ航空のジェット機でイスタンブール着.機内で知り合った日本人Mさんと二人で,旧市街のブルーモスク地区にある安宿に泊まった.彼は京都市出身で,東京のH大学在学中ということだ.なお,彼とは道中口論しながらも,以降インド入国まで行動を共にすることになる.と言っても宿泊部屋と移動時のみがいっしょで,日々の行動は大抵各自別々,勝手にやっていた.中近東あたりでは,宿はすべて2人部屋以上となっているし,ましてやユースホステルなどほとんどない.と言うより安宿が多くあり宿泊代がめっぽう安いので,わざわざユースを利用する価値はない.しかも二人で行動すればお互い荷物を見張れるし,道中町を歩くにも何かと安心・便利である.日本人にせよ欧米人にせよ皆,複数人で旅をしていたし,人数が多いほど安く泊まれた.
 イランの首都テヘランへ向かう直行列車テヘラン急行(TEHERAN EXPRESS)は,この時期一週間に一度,水曜日のみしか運行していない.夏期には一週間に3本出ているようだ.着いた日が火曜日だったので,来週の水曜日まで待つことにした.切符購入にはトルコで発行している外国人用学生証が必要なので,早速買うことにした.アテネで手に入れた学生証を見せ,手数料(約300円)を払うだけで即ゲット.どちらかと言うと,買うという言葉が合っているのだ.
 早速乗車切符購入のため,街の中心部に位置するガラタ橋からフェリーに乗ってボスポラス海峡を横断.建設中のヨーロッパとアジアを結ぶボスポラス大橋が彼方に見える.来年(1973年)完成するそうだ.アジア側ハイデルパジャ駅でテヘラン行きの切符を学割で買った.海峡に面して建っているこの駅は,1906年に建築されたドイツ様式の威風堂々とした建物だ.
 
 イスタンブールではドネルケバブと呼ばれる羊料理をよく食べた.これは羊肉の薄切りを何重にも串に刺し,丸太のようにした塊を回転焼きしたものだ.長いナイフで外側からそぎ,パンに野菜と一緒に包み込んで食べる.いわばトルコのファーストフードだ.店先で焼いているので,よけい食欲を誘う.アテネで初めて食べたが,やはり本場はトルコである.なお,トルコ語で“ケバブ”とは焼き肉を意味し,シシカバブ(ケバブ)の“シシ”は串を意味するそうだ.ブラジルにもシュラスコという似た料理があるが,こちらは牛肉を塊のまま焼き上げている.
 ガラタ橋界隈には魚市場が設けられており,アジに似た魚を天ぷら風に揚げて売られていた.試しに食べてみると,味は日本の天ぷらそのものであるが骨が多過ぎて閉口した.現地の人達は,これをパンにサンドイッチして食べていた.なお,当時ガラタ橋は2階建構造の浮き橋であり,橋の上を歩くとユラユラ揺れているのが体感出来た.橋の1階には店舗や食堂が軒を連ね,終日市民でごった返し賑わっていた.どこか人間臭さを感じさせ何度でも足を運びたくなる活気ある場所であった.
《※浮き橋のガラタ橋は1992年の夏,火災に遭い焼失.現在は隣に新しい橋が架けられている》
 
 宿から近いこともあって,滞在中,日参するようにグランドバザールへ出掛けた.その一角にあるモンゴル人の経営する毛皮屋で,物々交換で羊の毛皮のコートと帽子を手に入れた.交換した品は,就職して初めて貰った給料で買った,普通のセイコー自動巻腕時計だ.当時,どこの国へ行っても異常なくらいセイコーの人気は高かった.いい腕時計だと褒められ,是非売ってくれと頼まれたたことが何度もある.
 モンゴル人とは話が合い,ついに晩ご飯までご馳走になった.顔が日本人と区別が付かないくらいそっくりなので,よけい親近感が持てる.食後出されたモンゴルティーがおいしかった.モンゴルでは見知らぬ旅人でも食事をふるまい丁重にもてなすのが,慣習となっているらしい.厳しい自然の中での生活が,そのような相互援助の精神を生んだのかも知れない.
 毛皮のコートと帽子を手に入れたまではよかったが,これが大層かさばって,とてもでないが持って帰れそうもない.そこで思案の挙げ句,家へ送ることにした.宿で厳重に梱包した小包を小脇に抱え,歩いて中央郵便局へと向かった.しかし小包はここでは扱っておらず,別の貨物用郵便局へ行くよう言われた.貨物用郵便局はガラタ橋を渡った別の地区(新市街)にあり,中心部より離れている.歩いて行くにはかなり時間を要し,きつかった.航空便はもう一着コートが買えるぐらい高かったので,はるかに安い船便で送った.なお,この小包が家に届いたのは,年も明けた翌年の2月上旬だった.もう手元に届くことはあるまいと諦めていた矢先のことであった.
 さて,腕時計を手放したことで,急きょ時計を買う必要に迫られた.時計無しで旅を続けるのは不可能も同然.街角の露店では時計も売られているので,ここで安物の時計を買うことにした.信頼性に欠けるので予備用にもう1個,2個まとめて約3分の2に値切った.面白いことにこの時計を身につけて歩いていても,時計を売ってくれとしつこくせがまれた.いくらメイド・イン・トルコ(※)だと説明しても,なかなか信用してもらえない.日本人は誰もが皆セイコーを持っている,と信じ込んでいるみたいだ.
《※文字盤には「SWISS MOVT」と書かれていたので,スイス製のムーブメントを使用していたのかも知れない.なお,現在(2004.3)でも問題なく時を刻んでいる》

 <露店で買った腕時計>

 イスタンブールに滞在して数日が過ぎたが,未だにどこも観光していない.どちらかというと,この街がかもし出す一種独特の,西洋と東洋,それにイスラム文化が融合した雰囲気を楽しんでいた.しかし折角来たのだから何処か見ておかなければお話にならない.そう思い立ち,手近のスルタンアフメット(ブルー)・モスク,アヤ・ソフィア寺院,それからトプカピ宮殿の順に見学した.宮殿博物館の展示室には,小石ほどもあるダイヤモンドが陳列されており,しばし見とれてため息をついたものだ.
 出発の前日,サヨナラを言うため,あのモンゴル人の店を再訪した.モンゴルティーとお菓子をよばれながら雑談にふけった.別れ際,手を振って見送ってくれた.モンゴル服の袖から覗くその腕には,セイコーの腕時計がキラッと光って見えた.
 
 11月1日水曜日.再びフェリーに乗って相棒Mさんと共にハイデルパジャ駅へ向かった.みんなたっぷりの食料を持ち込んでいる.我々のようなバックパッカーは,そうそう毎回食堂車を利用する訳にはいかないのだ.
 17時45分定刻,テヘラン急行は発車した.目的地テヘランまで約三千キロ余り.長い列車の旅が始まった.首都アンカラには,まだ暗い早朝に到着した.1時間停車の後出発.2日目はほぼ時刻表通り発着していた.
 3日目はほとんど一日中雨が降っていた.この頃から列車は徐々に遅れ始めた.今までもそうであったが,駅も建物も何もないところで度々停車を繰り返し,更に遅れることとなった.しかし,車窓からの景色は変化に富んでいて,時間を忘れさせてくれる.どこまでも続く大草原に羊が放牧されていたり,時たま雲間から日が射すと虹が見られる.遠くに雪を抱いた山を眺めながら列車は山岳地帯へ入り,高原をひた走る.

 <テヘラン急行>

 東アナトリアのタトバンには4時間遅れで到着.この町はバン湖という大きな湖の畔にあり,レールはさらに約1.5km先のフェリー乗り場へと延びている.ここで列車ごとフェリーに乗り込み,約3時間30分かけて湖を横断,対岸の町バンへ向かう.時刻表ではバン湖航行は昼間となっていたが,4時間以上遅れてしまったので夜間航行となった.船からの風景を楽しもうと意気込んでいたのに残念だ.
 

イラン
 
 4日目も天気が悪く雨模様.早朝イラン入国.国境地帯は,これまでの荒涼とした大平原から,険しい岩山が続く山岳地帯へと一変する.やがて山を下ると砂漠地帯となったが,雨はさらにひどくなり大雨となった.降り注いだ雨は広大な砂漠を水浸しにしていた.風雨に荒れる湖の岸辺に沿って,列車はしばらく走った.増水した水は,線路のすぐ近くまで迫ってきていた.砂漠にこのような大雨が降るとは,思いもよらなかった.私のこれまでの常識は,もろくも崩れ去ってしまった.
 14時過ぎ,7時間遅れでイラン北西部,アゼルバイジャン地方の中心都市でありイラン第二の都市でもあるタブリーズ到着.テヘラン到着はさらに遅れて翌日,すなわち5日目の午前6時となった.トータルで約8時間30分の遅れとなった.
 車内で一緒だった日本人が6人加わり,計8人でひとり一泊約200円の安宿に落ち着いた.バザール見学後,全員揃って銭湯へ出掛けた.宿にはシャワー設備などなかったからだ.銭湯と言っても湯の出るシャワーがあるのみで,浴槽など勿論ない.頼めば垢を擦ってくれるみたいだ.文字通り旅の垢を落とし,洗髪も済ましスッキリした.
 翌日,全員一緒にアフガニスタンへ向かうことになった.私としては2〜3日泊まってもよいと考えていた.
『だが待てよ,観光していたらきりがない.今まであちこち十分見てきたではないか!それにテヘランは,これといって特筆すべき観光名所はないようだし.今後訪れる国では見どころはたくさんある.ここで無駄な金は使いたくないなぁ〜.いっそみんなといっしょだと何かと面白いし・・・』
と考え直し,彼らと共に出発することにした.
 イラン滞在中,毎食時にはチェロウケバブばかり食べていた.我々はこれを称し“羊めし”とか“羊丼”と呼んでいた.チェロウケバブとは一枚の皿の上に,棒状にした羊のミンチの焼き肉(早い話が羊のつくね)を置き,その上に蒸したインディカ米(イランでは米は炊くものでなく,蒸すものである.時に軽く油で炒めていたこともあった)をてんこ盛りのせ,サラダとして生タマネギを添えてある.タマネギは半分にカットしているか,若しくは1個まるまる出てくる場合もあった.いわば日本の丼のようにポピユラーな食べ物だ.安くて早くて米が食べれることもあって,最初は一同美味い美味いと食べていたが,だんだんと見るのも嫌になってきた.やはり日本人にとっては,ちと脂っこすぎる.
 

 <バスターミナルにて>

 長距離バスターミナル午後1時発のメシェッド行きに乗り込む.運賃800円也.約千キロメートル先のメシェッド到着は,翌日午前7時30分.ここはイスラム教シーア派の聖地でもある.すぐに国境の町タイバード(280円)へ向かうバスを探す.タイバード正午到着.さらに連絡バス(120円)を乗り継ぎ国境検問所へ.なお,イラン滞在3日間及び横断に要した全費用は,節約の甲斐あって10米ドルのみ!であったことをここに報告しておく.
 

アフガニスタン
 
 国境は見渡す限りの地平線が広がる,砂漠の真っ只中にあった.出入国手続きに長時間待たされ,アフガニスタンに入国した時には既に午後4時(イランとの時差1時間)を過ぎていた.へラート行きのバスは午後6時発.ヘラート到着午後8時30分.長距離バスターミナル前のホテルに泊まることにした.宿泊費100円.私と相棒のMさんはヘラートで2泊することにした.その間に他の日本人達は,カブールへ向けて早々に旅立ってしまった.
 アフガニスタンは日本では到底考えられないほど物価が安い.しかも通貨単位はアフガニー(Af)と分かり易く,1アフガニー≒約4円で換算も簡単明瞭.例えばメロン1個12Af=48円.紙幣には国王ザーヒル・シャーの肖像が印刷されていた.我々貧乏旅行者でも,王様とまでいかなくとも少なくとも貴族の暮らしは可能である.
 高原に位置するのでそれほど暑くもなく,しかも空雲一つ無い空は,真っ青に抜けるように澄み切っている.その上,格安で“ハッシッシ”が入手出来る.“ハッシッシ(Hashish)”とは大麻から抽出した薄黒い樹脂を圧縮,粘土状に薄く固めたものだ.通りを歩いていると売人達によく呼び止められた.彼ら売人達に言わせると,アルコールやタバコの方がよっぽど健康に害があり,堕落の根源であると強調していた.当時麻薬取り締まりが緩かったせいもあり,アフガニスタンを経由してインド方面を目指す欧米のヒッピーとかバックパッカー達に大いに人気があった.そんな訳でシルクロードの古い町でもあるヘラートは,随分旅人の往来があり賑わっていた.
 町に隣接してヘラート城塞の遺跡があり,一部軍隊の駐屯地に使用されていた.広いメインストリートに面する商店街,すなわちバザールには食料品屋・パン屋・食堂・雑貨屋・骨董屋を始め,羊・狼・ヒョウなどを扱う毛皮屋が軒を連ねていた.店の主人の説明によると,鉄砲の弾が貫通して穴が空いた毛皮は,ほとんど値打ちがないということだ.これら毛皮はなめしが十分に出来ていないせいか,少々臭かった.
 バザールを覗いていると7〜10才ぐらいの子供が数人駆け寄り,英語を教えてくれと懇願された.そのうちのひとりが,一冊の使い古した英語の絵本を大事そうに抱えている.座り込んで発音,読み方など教えてやると,目を輝かせ一生懸命聞き入っていた.旅行者相手に商売するには,英語が絶対不可欠だ.そのため子供達は道行く外国人旅行者を掴まえ,その都度英語を習って将来に備えていたのだ.このような学習熱心な子供達が居る限り,この国の未来は明るいと思われた.
 


〈 回 想 〉

 この頃のアフガニスタンは,まことに平和であった.と言うより世界全体が平和で治安が安定していた.危険地域など無く,どこの国のどの街でも安心して訪れ,自由に歩くことが出来た.ただし北朝鮮,中国,北ベトナム,東ドイツの4ヵ国は除く,と当時のパスポートには記載されていたが・・・中近東も例外ではなく,夜道も何の心配もなく歩け,夜店を楽しむことが出来た.強いて挙げれば危険分子は日本赤軍とアラブ・パレスチナゲリラぐらいだった.
 当時,国内では赤軍が大暴れしていた.そしてこの年5月30日,赤軍メンバー3人はエール・フランス機でイスラエル,テルアビブ空港に降り立った.自動小銃と手榴弾で武装し,辺り構わず無差別襲撃をしたのだ.さらにこの年9月には,アラブゲリラによりミュンヘンオリンピック会場で“黒い9月”事件が起こった.
 
 この事件に関連し,私も思わぬとばっちりを受けた被害者である.スペイン,フランス国境ピレネー山中に「アンドラ」という小さな国がある.私はこの小国に寄ってみようと思った.バルセロナからピレネー山脈を越え,フランス,ツールーズへ抜ける鉄道が連絡している.この地方路線がアンドラ近くを経由しているが,残念ながら鉄道は乗り入れていない.フランス国境側のツール・ド・カロル(La Tour de Calol)から道路が通じているので,そこから入国しようと計画した.
 7月27日木曜日,バルセロナ発14:25のツールーズ連絡列車に乗り込んだ.スペインとフランスは線路の軌道幅が異なるので,国境で乗客は全員降りて乗り換えなければならない.そんな訳で車内でパスポートチェックを受けるのではなく,ここでは検問所で受ける.この時,私が日本人だと分かると,係官は驚いた様子で私を駅の公安室へ連行した.てっきり日本赤軍の一味だと思ったのだろうか?椅子に座らされ,3人の係官の執拗な取り調べを受けた.フランス語でまくし立てられ,いろいろ事情聴取とか尋問されるが理解出来るはずがない.当然,こんな田舎の駅であるから英語を話せる取調官もいない.恐らく,かって日本人がこのルートで入国したことなどないのだろう.時間がどんどん過ぎ去るばかりで,一向にラチがあかない.無実の罪で捕らわれるのか?この時ばかりはほとほと困った.
 そんな時,ふと国際運転免許証を持っているのを思い出した,当時の国際運転免許証はパスポートサイズで,日本語,英語,フランス語,他3ヵ国の計6ヵ国語で書かれていた.直ぐさま取り出し,「これが目に入らぬか!」とばかり国際免許証を見せつけてやった.係員はやっと勘違いに気づいたのか態度を軟化,こうして疑いは目出度く晴れた.
 折しもツールーズ行きの列車が発車寸前.係員は気を利かしてくれ列車を待たせ,一緒に荷物を抱えて走ってくれた.乗客達は窓から顔を突き出し,そんな私を好奇の目で見詰めていた.
『何てこった!オイラはアンドラへ行きたいのに〜!・・・』
しかし,説明しても話(言葉)が通じる相手でない.また変に勘ぐられても困るので,素直にツールーズ行き列車に飛び乗った.そのような訳でアンドラ行きを果たせず,断念せざるを得なかった.それにしてもパスポートより国際運転免許証が役に立つとは思ってもみなかった.パスポートも是非フランス語で記載すべきである.



 さて,ここで以降の悲しいアフガニスタンの歴史を簡単に振り返ってみよう.
1973年−無血クーデターによって王制が廃止され共和国制へと移行する.国王ザーヒル・シャーはイタリアへ亡命.
1978年−そのクーデターを指揮した大統領は暗殺され,親ソ連体制の社会主義国家となる.イスラム主義者を弾圧する社会主義路線に対抗して,イスラム保守派の武装ゲリラが立ち上がる.
1979年−ソ連は政府を支援するという名目でアフガニスタンに侵攻し,世界中から批判を浴びる.一方アメリカとパキスタンはゲリラ側(タリバン等)を援助し続け,米ソ代理戦争の様相を呈する.
1989年−2月にソ連軍が撤退するまで150万人以上が犠牲になった.
1994年−パキスタンとサウジアラビアが支援したタリバンがカンダハルを制圧.
1996年−タリバン,首都カブールを占領.暫定政権樹立.タリバン支配始まる.
2001年−10月,アメリカ軍アフガニスタン攻撃.
2001年−11月,タリバン政権崩壊.
 以降,現在に至るまで民族・部族間で内紛が続き,戦火と混乱は今なお一向に収まる気配はない.イラク,旧ユーゴも同様であるが,これほどイスラム教に信心深い人達が何故戦うのか?どうやら信仰心と闘争心は全く別物のようであり理解出来ない.あの頃は言語の異なる各部族が反目し合っている様子など,微塵も感じられなかった.みんな和気あいあいとしてたし,国王の元でひとつにまとまっていた.それにしてもアフガニスタンがこれほど多くの多民族から成り立っていた国家とは,当時知る由もなかった.
 
 11月10日,カンダハル経由でカブールへ旅立った.走行距離はカンダハルまで約750km.カンダハル〜カブール間約600km.バス賃はカブール迄720円.米ソの援助合戦により,砂漠の中に造られたアジアハイウェイを長距離バスは突っ走る.我々二人以外,乗客は皆現地人.途中,休憩の為何度か停車.砂漠と言えども草木が生え低い灌木もある.きれいな水の流れる水路もある.どうやらそんな場所を選んで停車しているようだ.乗客達は用を足すため,一目散に茂みに駆け込む.茂みが無い場合は,そこら辺で適当に済ます.彼らアラブ人は,小便でもしゃがんでしている.立ってしている我々を見て,逆に笑われた.
 その間,バスの運転手と助手は後部のエンジンルームのカバーを開け,水路で汲んだ水をラジエーターに補給.その後エンジンをふかし,ラジエーターに何回も水をぶっかけていた.なんとも手荒いエンジン冷却法だ.
 停車はそれ以外にサラートが加わる.つまり礼拝の時間が来れば突然停車する.乗客も運転手もみんなそろって下車し.一斉に祈りを捧げる.イスラム教徒は一日に五回,夜明け・正午・午後・日没・夜半にメッカのカーバ神殿の方角へ向かって礼拝する義務があるのだ.カンダハルには午後8時到着.バス停前の旅籠に宿泊.1泊80円也.
 
 翌早朝,同じバスで出発.午後7時前,カブール到着.中心街ロータリーに面するアトランティックホテルに宿泊.1泊100円.シャワー・バスは共同だ.荷物を置き夕食に出掛ける.自動ドアのあるカブール一番の高級レストラン,カイバルレストランへ.約300円で食べきれないぐらいある.久しぶりに新鮮な野菜のサラダを,山盛り食べることが出来た.
 翌日,バーミアン行きのバス発着場を探す.バーミアンへは明日の便で行くことにした.発車の時刻(はっきり分からないが,夜中に出るらしい)と運賃(240円)を確認してから市内を散策.昼食と夕食は大衆食堂でシシカバブ,コルマ(羊の脂煮),パラオ(焼き飯)など食べた.昼間は青空喫茶で時間を過ごした.羊のミルクに腐りかけのモンキーバナナを材料とするバナナジュースは,見かけは悪いがことの外美味く,何杯もおかわりした.
 カブールではインドのビザを取らなければならない.インド大使館でビザ申請.4〜5日かかるという.バーミアンへ行く前に手続きを済ましておいてよかった.次いでパキスタン行きのバスを予約しに行った.ビザを受け取れる日が土曜になるので,出発は日曜日とした.なお,インド大使館は金曜と日曜が休みのようだ.ペシャワルまで400円.これは高いと思った.人間というもの,3〜4日もすればその国の物価水準に慣れてしまい,現地人と同じような物差しで考え,計算するようになるから面白いものだ.
 
 夜12時頃,相棒と共にバーミアン行きのボンネット型バスに乗り込む.これが本当に動くのか?と疑いたくなるような,廃車同然のオンボロバスだ.板張りのベンチシートに座って待つが,一向に動き出す気配がない.十分に厚着しているが,冷気が足元から襲ってきて寝られない.どうやら乗客が集まって満員にならなければ,出発しないようだ.結局,バスが動き出したのは午前3時を過ぎていた.
 薄明かるくなる6時過ぎ,山間部の谷川の畔で一回目の休憩.バスはデコボコの悪路をあえぎながら登っていく.屋根の上に荷物を満載しているせいか,揺れるたびに車体がきしむ.その都度,床から上部が左右に大きくユッサユッサ揺れているのがよく分かる.屋根がつぶれてしまうのではないか,と心配になってきた.走行すること自体不思議な位なのに,このような厳しい山岳路をよくぞ走れるものだと驚嘆しきり.しかも人と荷物を極限まで満載している.運転手の腕がよいのだろうか?!

 <バーミアンへの定期バス>

 バーミアンの谷に入る少し手前,車窓左手の丘にシャフル・イ・ゴルゴラの遺跡が見られる.13世紀,チンギス・ハーンが攻め入り,住民はことごとく殺戮,町は徹底的に破壊され尽くされた.車窓から眺める遺跡は,見るからに異様な雰囲気が漂い,今も亡霊がさまよっている様に思えた.
 故障も事故も無く無事バーミアンへ着いたのは午後4時になっていた.標高2,500mの谷合のオアシスは,落葉していたが見事なポプラ並木と麦畑が広がる緑豊かな地であった.ここには有名なバーミアンの大仏立像がある.山の岩壁に彫られており,正面から見て左(西)にある大きい石仏(The Great Buddah)は高さ53mで世界最大.約400m離れて右(東)に位置する小さい石仏(The Small Buddah)は高さ35m.七世紀,玄奘三蔵がこの地を訪れた頃は,仏像は金色に輝き,僧侶は五千人に達していたと云う.
《※1.仏像の高さは各国考古学調査隊により異なり,2〜3mのばらつきがある》
《※2.2001年3月,バーミアンの石仏はタリバンの砲撃により爆破された》
 
 土造りの宿はバザールの中心地,つまり大きい仏像のほぼ真ん前にある.部屋は土間のままで粗末なベッドが置かれているのみ.まるで馬小屋か納屋みたいだ.無論,電気はない.1泊40円では文句は言えない.寝具はないので寝袋(シュラフ)が必要.このような辺境な地を旅する時は,寝袋が必須となる.
 さてその夜,用を足すため宿の便所へ入って我が目を疑った.どのように表現すれば分かってもらえるだろうか?とにかく超弩級の汚さ!幸い乾燥しているので,見た目以上に臭気はきつくはないが,足の踏み場もない.これは到底許容出来る限度をはるかに超えている.彼らはどのように使っているのだろう?マナーというものがないのか?あまりのひどさに気分が悪くなってきた.これでは出るものも引っ込んでしまう.大はおろか小さえも出来そうもない.掃除とか汲み取りとか,一度もやったことがないのだろう.
 そこで私は一計を案じ,屋外へ出てウンチをすることにした.宿の裏手は畑になっており,その少し向こうの高台の岩壁に大仏像が静かに立っている.畑の真ん中あたりの端にしゃがみ込んで,用を足すことにした.物音ひとつ聞こえず静寂の世界.夜空には満天の星が煌めいている.月光に照らされた仏像は,なんとも言えず美しく威厳がある.仏像は何世紀も人の営みを見下ろしてきたのだろう.造られた当時は顔に金ぱくが貼られていたというが,その顔は後に侵入してきたイスラム教徒によって無惨にも削り取られた.それにも拘わらず月夜に仰ぐ大仏は,私をじっと見詰めているようだ.そんな気配を尻の当たりに感じる.あまりの荘厳さに圧倒され,私は用が済んでも立ち去る気がせず,そのままの姿勢でしばらく留まっていた.
 
 ここより西に向かってさらに山奥へ行けば,それはそれは美しい湖があるという.これが噂に聞く湖水地帯バンディ・アミール(Band-i-Amir)だ.大小いくつかの湖が段となって連なり,この世のものとは思えないほど神秘的だと云う.勿論,ガイドブックには紹介されておらず,いわば隠された名所だ.これは旅先で逆方向,つまりアジアからヨーロッパへ向かう旅行者達から伝え聞いた情報だ.宿の主人の話によると,この時期早くも雪が降ることがあるようだ.訪れる唯一の交通手段は,自分らで車をチャターするしかない.
 翌朝,早速バンディ・アミールへ行くことにし,7時頃から二人で車を探し始めた.最初に見付けた4輪駆動車のトラックは高すぎて話にならず,あっさり交渉決裂.他をあたることにした.次に見付けた小型のウィリスジープは二人で700Af.ここまで値切るのに1時間余り要す.相手も強気でこれ以上頑張っても下がりそうもない.それに早く出発しなければ日が暮れてしまう.既に9時を回っていたので,少々高いがこのジープをチャーターすることにした.
 ジープは全く人気のない荒涼とした高原を,つづら折れを繰り返しながら高度を稼いでいく.彼方には雪に被われたヒンドュークシュ山脈が遠望出来る.所々破れた幌の隙間から,容赦なく冷気と埃が進入してくる.時々,相棒と席を交替した.助手席はまだマシだが,後席は折りたたみ式の簡易席なので,尻が痛くてたまらないからだ.約80km,片道3時間の乗車は,正に忍耐と体力との勝負であった.

 <チャーターしたジープ>

 湖水地帯手前に湖の一部を展望出来る高台がある.砂漠の高原の彼方に,湖の一端が姿を現す.真っ青な瑠璃色の水を満々とたたえた湖面の美しさと,それを取り囲む奇っ怪な山容は,言葉ではとても言い表せない.はるか昔,仏教と共にシルクロードを渡って日本に伝来した瑠璃色のガラス器は,この湖の色をイメージしたのかも知れない.
 驚いたことに湖岸には,たまにしか訪れない観光客用に,急ごしらえの粗末な茶店(チャイハナ)とレンタルの馬屋があった.なるほど,広大なので湖巡りは歩いては到底無理だ.商魂たくましい彼らには,舌を巻くばかり.ともあれ,我々も馬を借りることにした(40Af=160円).馬の扱い方の説明を一通り聞き,馬に跨り自ら手綱を握る.馬に乗るのは生まれて初めてなので少々不安であったが,その心配はすぐに吹き飛んだ.馬は非常におとなしく,よく訓練されており,自分の意のままに操ることが出来た.湖もよかったが,私としては“さすらいのガンマン”よろしく,馬に乗って自由に高原を駆け回れたことの方が嬉しかった.

 <レンタホース>

 見物を済まし茶店でチャイを飲みながら休んでいると,BMWのオートバイに乗った,男女二人連れの旅行者がやって来た.はるばるドイツからここまでオートバイを走らせて来たという.今だから話すが,私も最初はオートバイで海外を旅しようと計画していた時期があった.ところが準備を進めていくうち,カルネ(一時輸入の通関手続き用書類)及び国際ナンバーの取得,バイクの運送,そのた諸手続きの煩雑さにうっとうしくなり,遂に直前になって諦めた経緯がある.彼らを見て本当に羨ましく思った.
 バーミアンに戻ったのは,夕方5時過ぎになっていた.二人共クタクタに疲れ,痛い尻をさすりながらジープを降りた.そして何気なくお互い顔を見合わせびっくり仰天.頭髪,眉毛それに顔まで埃で真っ白,まるで爺さんか役者のよう.次の瞬間,腹を抱えて大笑い.
 
 今日は再びカブールへ帰る日だ.朝早く起きる積もりが疲れていたせいもあり,7時過ぎとなってしまった.すでにバスの便はなかったので,やむなくトラックの荷台に便乗することにした.荷台には荷物が満載され,我々と数人の現地人は荷物の上に適当に席を取った.トラックはゆっくりと走行し,決してスピードを出そうとしない.ちょっと寒いが見晴らしは満点だ.私は仰向けになって過ぎゆく周囲の山々や,本物の紺碧の空を眺めていた.あのように美しい青空は,以降見たことがない.
 ところが昼も過ぎた頃からだんだんと頭が痛くなった.どうやら寒かったのと連日の疲労がたたって,風邪を引いたようだ.トラックの振動が伝わるたびに頭にひびき,その上寒くて震えていた.
 午後4時頃,トラックはアスファルト舗装の幹線道路に出た.訳が分からないまま,ここで乗客達はトヨタのバンに乗り換えることになった.このバンはカブール郊外までで,そこが終点だった.我々はタクシーをつかまえ,市内に向かった.再びアトランティックホテルの同じ部屋にチェックイン.私は熱があり食欲もなかったので,薬を飲んで直ぐに寝た.Mさんはひとりで食事に出掛けたようだ.
 
 翌朝8時に目が覚めた.幸いなことに奇跡的に熱も引き,気分もすこぶるグッド!.相棒はまだ寝ていたので,起こさないようこっそりとシャワーを浴びに行った.埃だらけの頭を洗い,すがすがしい気持ちになったので,ついでに汚れた下着や服もバスタブで洗濯した.
 昼から二人でカブール市内をぶらつき,例の青空喫茶でバナナジュースを飲んで,のんびり過ごした.こんな居心地のいい国へ来ると,あくせく動き回る気持ちは全く失せてしまう.何もせず,何も考えず,ただぼんやりと時を過ごす.これこそが究極の贅沢な旅かも知れない.
 翌日は10時まで朝寝坊した.午前中にインド大使館へ行き,ビザを記載したパスポートを受け取った.Mさんがアフガンコートを買いたいと言うので,バザール巡りに付き合うことにした.
 
 11月19日,今日はいよいよカイバル峠を越えてパキスタンへ入国する日だ.当時,パキスタンはビザ無しで入国出来た.午前7時発のペシャワル行きバスに乗車.カブール郊外をでてしばらく走ると大きな湖があった.山岳地帯に入ると国境も近い.カイバル峠手前,つまり西側に両国の国境検問所がある.ここから遙か彼方に峠の最高地点が見える.紀元前四世紀,アレキサンダー大王のインド,パンジャブ地方(現パキスタン領)への大遠征を始めとし,古来いにしえよりこの峠は,東西交易の要衝として度々歴史に登場するので有名である.
 

パキスタン
 
 アフガン側の国境を通過するのに時間がかかり,パキスタン入国は夕方近くになった.峠を越える頃はうす暗くなっていた.カイバル峠はこの旅のハイライトのひとつとして位置づけていただけに残念だ.
 カイバル峠周辺はパターン(パシュトゥン)族はじめ部族の自治区域となっており,パキスタン政府の治権さえ及ばない.いわば無法地帯であり部族の掟が全てだ.公然と銃の製造や売買,それにあらゆる種類の密輸も行われていると云う.
 バスはパキスタン側の国境の部落,ランディコタールを通り抜ける.街道の両側には武器商人らしき泥造りの店が立ち並び,ランプの光がまぶしい.目つきの鋭い男が店先に立ち,胡散臭そうにバスの通過を眺めている.車窓を通して,何処か不気味で異様な雰囲気がひしひし伝わってくる.しかし,昼間訪れば雰囲気はガラッと明るくなり,活気溢れる商人の町と化すであろう.多分,ヘラート・カブールなどのバザールと何ら変わらないと思う.個々の人としての“民”は,誰もが人なつっこく素朴で明るい善人,つまり気のいい“普通のオッサン”なのである,と私は信ずる.今まで各国を旅して,様々な人種・民族の人たちと接してきたからこそ,そのように思えるのだ.
 
 国境の街ぺシャワルには午後7時過ぎに到着.喧騒と怒号が渦巻く中,ラホール行きのバスを探すがどうしても見付からない.うろついていると運良く駅前に出たので,列車で行くことにした.出発まで時間があったせいか,ホームに待合客はまだほとんどいなかった.相棒と私は退屈しながら待っていた.
 しばらくすると二人の男が近づいてきた.追加料金を払えばクシェット(簡易寝台)を取ってやると言うのだ.驚いたことに,彼らは“席取り屋”らしい.どうしょうか迷ったが,そのうちホームにだんだんと人が溢れてきた.これでは席を取るのは到底困難,といち早く判断した我々は,ひとり5ルピーを席取り屋に支払った.列車がホームに近づくと,彼らは停車する前に素早く列車に飛び移り,見事二人分の簡易寝台を確保した.おかげでゆったり横になって寝ることが出来た.寝台(本来は荷物置き場かもしれないが?)の下は普通の板張りの椅子となっている.4人掛けの所に5人から6人詰めて座っており,大変な混雑振りだった.
 
 次の日の正午,パキスタン第二の都会であるラホール到着.ラホールはムガール帝国の首都として栄えた由緒ある街だ.またインドとの国境にほど近い.我々は駅前に面するツーリスト用の安宿に落ち着いた.部屋のドアには鍵がないので,外出時には私が持っていた錠前を掛けた.この錠は番号を合わせて開ける方式の錠前だ.これならばどちらが先に帰っても,部屋へ入れるので便利.やっと役立つ時が来た.
 昨年(1971年)の第三次印パ戦争に敗戦し,パキスタンは東パキスタン州(今のバングラディシュ)を手放していた.これまでもカシミール問題などで両国間には紛争が絶えなかった.そんな訳で当時,パキスタン〜インド国境は一週間に一度,木曜日にしか開かれなかった.しかも国境地帯へ入るには,ビザの他にロードパミッション(通行許可証)を必要とした.そこで次の日,馬車に乗ってパスポートオフィスへ行き,パミッションを申請した.インドへ出発するまでの3日間,これ以外特に何もせず,ブラブラして時を過ごした.
 言うまでもなくパキスタンに来ると,食事は朝から晩まで全てカレーとなる.道路にテーブルを置いた,庶民用の屋台で食べるのが安上がり.カレーは本物で辛いし,ざらついている.日本のカレーとは全く別物だ.鶏肉とか卵が入っているカレーは高級品である.現地人達は主食であるチャパティ又はナンに野菜カレーを付けて食べている.チャパティもいいが日本人はやはりカレーライスが欲しい.そこでライスと“スプーン”も注文する.現地人のように右手で器用に食べられないからだ.なお,ライスがその店にない場合は,よその食堂からでも出前してくれるので心配ない.私は一日4食,カレーばかり食べた日もあった.
《※チャパティもナンも同じようだが,チャパティは丸い薄焼きパン,ナンは細長くやや厚いパン》
 

インド
 
 11月23日木曜日,朝4時30分起床.宿の前でタクシーを掴まえ国境へ向かった.インドの通関でこの旅行中唯一初めて,リュックを開けさせられ中身を調べられた.今までパスポートのチェックのみで,荷物の検査は一切されなかったのに・・・インドへ入国したのは正午を過ぎていた.
 国境の町アムリッツァーへは乗り合いタクシーで行くことにした.タクシーの運チャンは,歩行者,自転車,馬車が行き交う生活道を,無茶苦茶スピードを上げて突っ走った.クラクションはほとんど押しっぱなし.突然,ガッツンと衝撃を受けた.どうやら犬をはねたようだ.運チャンはそんなことは少しも意に介さず,何事もなかったように走り続けた.あたかも物の怪に取り憑かれたか気でも狂ったかように,決してスピードを緩めることはなかった.加減知らずは本当に恐ろしいものだ.タクシーを降りた時,まるで遊園地の絶叫マシンから降りた時のように,私は両手に冷や汗をびっしょりかいていた.
 
 アムリッツァーからデリーへは3等の夜行列車を利用した.運良く窓際に座ることが出来た.窓にはガラスはなく,代わりに鉄格子がガッチリと取り付けられ,まるで囚人護送列車のよう.パキスタンではクシェットで寝ていたので気が付かなかったが,夜空を見上げると星がいっぱい瞬いている.バーミアンで見た夜空と較べて,決して引けを取らない.日本ではいくら条件が良くても,とてもこれほど多くの星は見られないだろう.その夜一晩中,インドのなま暖かい風にあたりながら一睡もせず,延々夜空と夜景を眺めていた.うっすらと地平線が白み,悠久の大地に徐々に朝日が射し始めた.『これがインドの夜明けだ!』と私は心の中で何度もつぶやいた.
 
 翌日午前6時にオールドデリー地区にあるデリー駅に着いた.この時,駅の雑踏にもみくちゃにされ,Mさんと私は遂にはぐれてしまった.この怒濤の人混みに呑み込まれては,どうにもならない.探すのを諦め,直ちに駅前で待機していた力車に乗り,ニューデリー駅へ向かった.力車と言っても人が梶棒を持って走るのではなく,自転車を組み合わせたサイクル力車(Cycle Rickshaw)だ.駅前で降りそこに居合わせた日本人5人と一緒に,宿を探して中心街コンナートパレス方面へ歩き出した.すると身なりの立派な紳士に呼び止められた.彼は弁護士でバックパッカー用の宿を経営しているという.そこでその宿に泊まることに決め,彼の後について行った.
 宿に落ち着いて荷物を整理した後,コンナートパレスにある旅行代理店へ向かった.日本へ帰る航空券を購入するため,取りあえず運賃だけでも聞いてみようと思ったからだ.係員が示す運賃は何故か随分と高い.説明してくれるがどうも分からない.見かねたのか隣に座っていたバックパッカー風のアメリカ人旅行者が説明してくれた.要約すれば以下の通り.
1.インドでは航空券を購入する外国人に対して,10%のTAXつまり消費税を掛けている.
2.航空券に限らず,外国人がインドで支払うホテル料金,みやげ物(高級品)等は,すべてTAXを掛けている.
彼も頭に来ていたようだ.さらに続けた.
3.もしネパールへ行く予定なら,カトマンズで購入した方が得策だ.
と貴重なアドバイスもしてくれた.
『よし,航空券はカトマンズで買おう!』
 その足で国会議事堂,インドの門を見学.地図上ではそれほどの距離ではないが,実際歩くとなると予想以上に時間が掛かる.1931年,ニューデリーは都市計画に基づいて新たに建設された.人工都市である故,建物の間隔,道路幅はゆったりと余裕を持って配置されている.しかもコンナートパレスを中心として外側に向かって放射状に道路は延びている.であるから一本道路を間違えば,それはもう大変.目的地からますます遠ざかるばかり.元に戻るのに一苦労するし,時間のロスも甚だしい.これがニューデリーで一番困ったことであり,腹立たしく思ったことだ.歩行者のことなど,これぽっちも考えていない.
 次の日,ネパールのビザを取りにネパール大使館へ.ビザは三日後に下りた.それ以外この3日間,同じ宿の日本人仲間とブラブラして退屈な日々を過ごしていた.雑談に明け暮れ,飽きれば周辺の散歩,のどが渇けばチャイを飲み,腹が減ればメシを食いに行く.
 大群衆にごったがえす街,狂ったような喧騒に加え耳をつんざく警笛,それらがどんよりとこもったような熱気に包まれているインド.依然にも述べたと思うが,このような混沌とした国に来ると横着になり,何もする気が起こらない.早い話がどうでもよくなる.
 
 宿の部屋は二人用なので,一緒に来た日本人のひとりと同宿することになった.彼はヒッピーのような長髪で髭を生やし,その様相は聖人のようで何処か謎めいている.彼はアメリカで2年間ほどバイトをして金を貯め,ヨーロッパ,中近東経由でやって来たらしい.道理で英語はペラペラだ.なお“らしい”と言ったのはその程度しか話してくれず,他のことは何も話そうとしなかったからだ.事実,彼とはこの後ベナレス迄10日間ほど行動を共にすることになるが,遂に名前は明かさなかった.彼が言わなかったので私もあえて聞こうとしなかったし,こちらから名乗りもしなかった.相部屋になるとお互い名を名乗り,出身地など紹介し合うのが普通なんだけど・・・
 ニューデリー出発も明日に迫った前日,やっと私は重い腰を持ち上げ行動を起こした.まずニューデリー駅までインドの学割証を取りに行くことにした.駅の窓口(Student Concessin Office)で手続,“鉄道割引証明書”なる書類を発行して貰う.これで1〜3等の切符を半額で買える.アグラ,ベナレス経由パトナ行きチケット購入に即時使用したのは言うまでもない.
 その後オールドデリー地区へ.赤砂岩の城塞,レッドフォートを見学後,今度はニューデリー地区の動物園へ.ここの一番の呼び物,ホワイトタイガーを見物した.移動にはインド名物のミニオート三輪,通称オート力車(Auto Rickshaw)を利用した.これに乗るには注意が必要.必ず吹っ掛けてくるので,乗る前に値段をきちんと決めておくこと,これが肝心.中には「メーター付なのでオーケー!」と調子よく言う運チャンもいるが,メーターは全く当てに出来ない.壊れているか又は不正にメーターを操作されるので,結局ぼられる羽目に陥るからだ.
 
 11月29日水曜日.朝6時起床.アグラ行きのタージ急行(TAJ EXPRESS)に,同宿していた彼と乗り込む.全車両3等,全席指定席の特別列車で一日2本出ている.約3時間30分後の11時5分アグラ到着.駅の旅行案内所に荷物を預け,そのままタージ・マハール寺院へ直行.
 ヤムナ川の畔に建つ白大理石造りのタージ・マハール寺院は,本当に美しい建造物だ.とてもこれが王妃の墓だとは思えない.基壇の四隅に寺院とほぼ同じ高さのミナレット(尖塔)を配し,左右対称.バランスが取れ安定したその姿は,見る者に安心感をもたらす.正面に座り込んで見上げていると,時折,ドーム屋根に雲がかかってくる.陽に照らされてまぶしいくらい真っ白だった屋根が,突然日影になったことにより表情が一変する.大理石の硬い表面の屋根がこの陰影の変化により,何やら柔らかでやさしいイメージを醸し出す.相棒の彼は愛用の望遠レンズに交換し,じっくり腰を落ち着け写真を撮っていた.
 時間をたっぷり掛けて寺院を見物した後,馬車に乗ってアグラ城に向かった.オールドデリーの城塞と同じような赤砂岩で造られているので,レッドフォートとも呼ばれている.ヤムナ川に面する城壁から遠望するタージ・マハール寺院は美しかった.帰りは英語達者な彼が交渉して,欧米旅行者グループのバンに便乗させて貰った.本日はツーリストバンガロー泊.
 
 翌日アグラ駅13時45分発の列車でベナレス(バラナシともいう)へ.ベナレス近くの駅で乗り換え,翌朝4時に着いた.馬車で宿へ.5時チェックイン.まだ早いので一眠りすることにした.ベナレスに限らず,インドの都市は眠らない.ここベナレスでも早朝にも拘わらず大勢の人が動き回り,賑わっていた.
 ベナレスはヒンズー教の聖地である.全国から聖人・信者が集まり,早朝から町はごった返している.黄色の布をまとっているのが聖人だ.ヒンズー教では牛は聖なる動物とされている.そのせいか町の大通りを通行人に混じり,聖牛(あるいは野良牛か?)が何頭も勝手に我が物顔でかっ歩している.聖牛と言えど所詮はただの牛.突然なにかの拍子に暴れだし暴走することもある.事実,牛が暴走して通行人を引っ掛けた現場を,私は偶然目撃した.目の前で起こった出来事で,運が悪ければ私か相棒がやられていたところだ.町中は車はほとんど走っていないが,常に牛に対して前後左右注意怠りなく歩かなければならない.牛に当てられた通行人は,胸と足を押さえて苦しそうにしていた.しばらく立ち上がれなかったが,なんとか大丈夫なようであった.
 この宿にはテヘランからヘラートまで一緒に旅した日本人のうち2人が,偶然泊まっていた.彼らとの再会を喜び合ったのは言うまでもない.旅人は皆,同じルートで同じような方面へ行き,同じような宿に泊まるので再会することはよくある.特にトルコ以降インドにかけてはメインルートはほぼ一本に限られるので,追いつ追われつ,抜きつ抜かれつという感じになる.このルートを少しでも外れれば日本人と出会うことはあるまい.これはヨーロッパを旅していても同じことで,ローカル線で地方へ行けば,もはや日本人旅行者の姿は皆無だった.
 
 聖なる大河,ガンジス川は言わずと知れた沐浴の川.ガート(Ghat)と呼ばれる階段状の沐浴場がガンジスの西岸に約4キロ続き,その数は60を越すらしい.名前がついているガートだけでも18ヶ所を数え,そのような有名なガートには信者が大勢集まり絶えず混んでいる.有名なガートなら御利益もそれなりに多くあるのだろうか?ヒンズー教徒達は一日何回もガンジスの流れに浸り,ヒンズーの神々に祈りながら身を清めている.体は元より口の中までゆすいで,全身隈無くきれいに清めている.しかも容器に入れて大事そうに持ち帰っている.彼らにとっては濁った水でも清流であり聖水なのだ.
 しかし,我々はこの水で手はおろか足を洗う気にもなれない.ときたま何か動物の死骸が流れてきたり,焼け残った人間の体の一部とおぼしきものものも見掛ける.露天の火葬場は上流と下流に2ヶ所あり,灰は聖なるガンジスの流れに帰している.驚いたことに直ぐその横,しかも下流側で洗濯している!なお,聖者それに不慮の死や幼児の死は,屍を焼かずそのまま川に流すと云うではないか!河の中洲にはそのような死体が打ち上げられ,鳥とか犬の恰好の餌食になると言う.唖然!このようなことがあってもいいのか!信じられない!まさに強烈な驚きの連続!並みの出来事ならぶったまげることのない私であるが,こればかりはいかんともしがたい.我が人生で得た常識など何の役にも立たないし通用しない.この際,あっさりとかなぐり捨てよう.

 <ベナレスの火葬場>

 
 以外にもベナレスでは凧揚げが盛んだった.夕方ともなるとベランダとか屋根に登り,ガンジス川に向かって一斉に凧を揚げている.よく見ているとお互いの凧の糸を絡ませている.相手の糸を切った方が勝ちなのだ.単に凧を揚げていたのではなく,凧合戦をしていたのだ.予備の凧と糸を足元に準備しており,切られたらすぐに凧を揚げ,切った相手に挑戦していく.夕陽に赤く染まる空,そして黄昏に宵闇せまるガンジス川.いつまで見ていても飽きることはない.
 町の大通りを一歩外れると細い路地が迷路の如く延びている.ちょっと向こうのガートへ行こうと思っても地元の者でもない限り,辿り着くのは不可能に近い.そんな訳でベナレスでは船に乗って,川面から観光するに限る.「あっちへ行け,こっちへ行け!」と船頭に言い付ければそれで済むから超ラクチン.宿で出会った2人を加えて計4人で小船をチャーター.勿論,船は船頭が櫂で漕ぐタイプで,悠久のガンジスの流れにはピッタリだ.上流の対岸にある町,ラムナガルにも上陸してみた.町中に中華料理店があったので,昼飯に中華料理をワイワイ言いながら食べた.
 二日目,面白そうな聖人がいたので一緒に船に乗せた.水上みやげ売りが我々を目ざとく見付け,売りつけようと小船を近寄せてくる.しつこく寄って来る小うるさいみやげ売りを,聖人が片っ端から追い払ってくれるので,非常に重宝した.彼は懐から年季の入ったパイプを取り出し,慣れた手つきで葉をほぐしパイプに詰めている.マッチで火を付けプカプカとふかし始めた.たばこを吸っているのかなと思ったが,どうも吸い方が違う.口を覆うように両手でパイプを支えている.彼はマリファナを吸っていたのだ.マリファナを吸って瞑想の世界へワープするのだろうか?いずれにせよ,どうやら我々とは全く次元が異なるようだ.インド・ネパールまで来ると,ハッシッシでなく葉と花を乾燥したマリファナ(ガンジャともいう)にとって変わる.なお,この聖人は次の日も同じ場所で瞑想にふけっていたので,また同乗させることにした.

 <ベナレスの聖人>

 このように3日間,船遊びばかりして騒いで過ごしていた.夜はみんな一室に集まり,旅の余話などして夜更かしした.その中のひとり,大阪出身の“浪花の政(マサ)”こと「政弘」は特に面白いひょうきんな奴だった.かなりベナレスかぶれしていたので,我々はこの男を称し“ベナレスの政(マサ)”とも呼んでいた.旅先で買ったインド風の服を着こなし,首にはヒンズーの首飾り,そして腕にはみやげ売りから買ったブレスレット.それが妙に似合っていた.そして話す言葉はなんとも奇妙な“インド人の英語”である.
「お前の英語は,イングリッシュでなくヒングリッシュだ!」
などとみんなでからかって笑い飛ばした.この“ヒン”はヒンズーの「ヒン」と「貧(ひん)」をもじったものだ.本人はいっぱしのインド人に成り切っていたようだ.陽気で愉快な仲間と一緒だったので,この3日間はアッという間に過ぎ去ってしまった.もし友がおらず一人で観光していたとすれば,単にベナレスは騒々しくて汚い町,という印象しか残らなかっただろう.「悪いことは長く続くが,楽しいことはほんの一瞬で終わる」と言われるが,これは本当.いつまでもこころに残る楽しいひとときにダンニャワード!(※1)そしてベナレスよ!ナマスカール!(※2).
《※1:ヒンズー(正確にはヒンディー)の言葉で「感謝」とか「ありがとう」の意》
《※2:同じくヒンズーの言葉で「さようなら」の意》
 
 私はインドで考えた.
『見知らぬ地を求め,そして新たなる友に出逢うため,旅人は常に旅を続けなければならない』
日本を出てもう半年.この頃になると日々繰り返してきた行為,つまり朝起きて荷物をまとめ,次の目的地を目指し,着けば宿を探して眠る.この一連のいとなみが今やすっかり板に付き習慣となって,やがてこれが自分に課せられた仕事,つまり職業と思えるようになってきた.こんな職業が本当にあるならば,一生続けたい,と願わずにはいられない.
 
 ベナレス4日目の朝.気の置けない友と別れるのは寂しいが,旅する者は次の町に向かって旅立つ宿命にある.相棒と共に10時過ぎに宿を出てベナレス駅に向かった.私はパトナ経由カトマンズへ,彼はボンベイ(今のムンバイ)からゴアへ.それぞれ行き先は別々だ.先にボンベイ行きの列車が入線してきた.いよいよこの正体不明の日本人と別れる時が来た.
「縁があったらまた逢おう!」
そう言って別れを告げた.
 
 ベナレスまでの道中,彼から何度も誘われていた.
「一緒にゴアへ行かないか?ゴアはいいところだぞ」
このようなどこか人を引きつける,味のある男とする旅は,さぞや面白かろう.大いに迷い,その気になりかけたが,次の理由によりやむなく踏みとどまった.
1.私は長男なので家を継ぎ,親の面倒を看なければならない.
(当時の長男は,みんなそのように考えていた)
2.正月も迫っているので今年中に帰国,早く今後のことを考えなければならない.
3.所持金も残り少なくなってきた.
もし私が長男でなかったとしたら,迷わずゴア(※)へ向かっていたことだろう.善きにつけ悪しきにつけ,私の人生も変わっていたかも知れない.
《※南インド海岸に位置し,ポルトガル領として発展してきた由緒ある文化遺産の町.現在はインドに併合.当時,ヒッピーの聖地と言われていた》
 
 パトナ行きの列車は13時45分のはずだが,時間が過ぎても一向に列車は来ない.私はベナレス駅のホームで,ひとり時間を持て余していた.駅の食堂で飯を食ったり,ホームに売りに来る茶(チャイ)売りのミルクティーを飲んだりして時間を過ごした.なお,ミルクティーは使い捨ての素焼きのカップに入れて売ってくれる.道理で線路上には捨てられたカップのかけらが散乱していた.
 ヒマなので電池カミソリを取り出して髭を剃っていると,駅員が近づいて「ちょっと来てくれ」と言って駅長室へ連れて行かれた.開口一番,駅長が切り出した.
「そのシェービングマシンを売ってくれないか?」
これを手放しては私が困る.残念だが売ることは出来ない,とあっさり断った.
 ホームをぶらついていると片隅にひとりの老婆が倒れていた.生きているのか?それとも死んでいるのか?虫の息で生きているように思える.外見から判断すると倒れてからかなりの時間が経っているようだ.衣服の裾がコンクリート面にこびり付いていたから.ヒンズー教徒は死期が近いと悟ると,ベナレスの死の館を訪れるという.そこで死ぬのを待つのだ.そしてガンジスの川岸で火葬されるのを希望している.この老婆もその目的で訪れたが,力尽きてここで倒れたのかも知れない.それにしても誰も気に留めようともしない.自分自身でさえ,さして驚きもせず冷静に見詰めている.どうやらこの私も“ベナレスの風”に,すっかり馴染んでしまったらしい.恐らく,こんなことはしょっちゅうあるのだろう.信じがたい事実であるが,これが生と死の共存する街,ベナレスの“日常”なのかも知れない.
 
 パトナ行きの列車に乗り込んだのは午後5時を回っていた.夜中の2時にパトナ到着.日本のラッシュ時をはるかに上回る大混雑に揉まれながら駅を出て,駅前にたむろしているサイクル力車に飛び乗り船着き場へ.1時間ほど連絡船に乗り対岸のハジャプールへ.なお,この船は古代の遺物かと見間違うほどの年代物で何と!蒸気で動く外輪船だった.
 ハジャプール駅では大層待たされ,蒸気機関車の引く汽車に乗ったのは午前8時になっていた.目的地である国境の町ラクソールまで4回も乗り換え,ツーリストロッジに落ち着いたのは午後9時を過ぎていた.
 ところで中近東からインドにかけては夜中の何時に着こうが,宿の心配をする必要など一切無用.大勢の客引きが,英文刷り名刺を持って我々バックパッカーを待ち構えているからだ.あっそうそう,それからもうすっかり時効となるのでこっそり打ち明けるが,パトナからラクソールまで混雑に紛れてタダ乗りした.お陰様でカトマンズ迄の食費,宿泊費等を含む一切の費用は,千円にも満たなかった.
 

ネパール
 
 12月6日水曜日,朝5時起床.眠くてしょうがない.国境を越えネパール側に入ったのは7時ごろだった.最初のバスに乗り遅れたので,次の9時発のバスに乗った.バスはいくつも峠を越えた.そして最後の峠を越えた時,いきなり目の前にヒマラヤ山脈が飛び込んできた.その荘厳な山容に眠気も疲れもいっぺんに吹っ飛んだ.
 この地が私の長い旅の終着点になると思うと,感慨もひとしおだ.エジプトアスワンでのあの「天の啓示」以来,少しでも早く帰りたいと願っていた.しかしいざ帰るとなると,なにか一抹の寂しささえ感ずる.正直なところ,もっともっと旅を続けたいと思った.帰国すれば厳しい現実が待ち受け,即刻就職しなければならない.今のように浮き世離れした,気楽な生活とは無縁となる.そんなことを考えるといささか憂鬱になってきた.物事全て,いつか必ず終わりが訪れる.また終わりは「新たなる事」の始まりでもある.そう割り切って前向きに進むしかない.
 カトマンズには午後7時到着.安宿が群がるタメル地区のエベレストホテルに宿泊.
 翌日,早速旅行代理店に出向き日本迄の航空券(308.3米ドル)を学割で買った.航空会社はタイ国際航空を利用.ついでポカラ往復航空券(14米ドル)も購入.ポカラへは12月8日,帰国は12月14日と決定.これでもう一安心,日本へ帰れる.有り金全部使い切っても大丈夫.その後早速みやげの下見にバザールをぶらついた.
 
 今日はポカラへ飛ぶ日だ.荷物はホテルに預け,身の回り品と寝袋だけを持ってタクシーで空港へ.燃料漏れで30分遅れて午後2時50分,ロイヤル・ネパール航空機はポカラへ飛び立った.この機は日本製のプロペラ機(YS-11)だ.ヒマラヤ山脈に対し平行に飛ぶので,機内からの眺めは抜群.ただし往きの場合,右側に座らなければならない.
 途中,管制塔も何もない単なる草原のフィールド,海抜100mのチトワンに着陸した.周辺にはトラ,サイ,ヒョウ,ワニなどが生息する熱帯ジャングルを控えていると云う.どうやら象に乗ってジャングルを探訪するエレファント・サファリの基地のようだ.それにしてもネパールという国は,八千m級の山岳地帯から猛獣の棲むジャングル地帯まで,何とバラエティーに富んでいることか!
 カトマンズからの実飛行時間は約30分.村に隣接したポカラ飛行場へ無事着陸.この飛行場は機内から眺めると,まるで畑のように思えた.だから「空港」とはとても言い難く,「飛行場」と呼ぶことにする.待機していた客引きの少年に誘われるまま,ペーワロッジ泊.ペーワロッジという名前はロマンチックだが,実体は泥のお粗末な小屋.多分,農家の廃屋とか納屋をそのまま利用しているのだろう.竹製のベッドを置いただけの質素な部屋だ.寝袋を持ってきて良かった.しかもランプさえないのでライトは必需品.話し相手もいないので暗くなれば眠るしかない.ポカラ滞在中は午後5〜6時に寝た.
 
 ポカラ部落はヒマラヤ山脈が目前に望める一大観光地である.海抜800mに位置するので12月でも日中は以外と暖かい.マッターホルン又はパラマウント映画のマークによく似た三角に尖った山,マチャプチャレ(6,993m)がポカラの象徴的な山である.他にアンナプルナ,ダウラギリがその勇壮な姿を披露してくれる.ここを登山基地にトレッキングルートがいくつも延びている.
 村はずれには大きな湖,ペーワ湖がある.湖面から眺めるヒマラヤ山脈はことのほか美しい.そこで早速カヌーを借りて湖からヒマラヤ山脈を楽しむことにした.写真をパチリパチリ撮りたいところだが,フィルムの残り枚数が僅かなので計算しながら撮らなけらばならない.その分出来るだけ自分の目に焼き付けるよう努力した.約2時間カヌーを漕いだので,腕がだるくなった.

 <ペーワ湖>

 次は飛行場へ行ってみる.滑走路は舗装無しの土剥き出しのまま.土煙を上げ小石を跳ね飛ばして離発着する様子を見学してから,近くの貸し自転車屋でレンタサイクルを借りた.今度はペダルを漕ぎ,町を通り抜け北はずれまで行ってみる.草屋葺きの農家が点在し,牛がのんびり歩いている.どこか日本の懐かしい山村を思い起こさせる,心安らぐ風景だ.
 
 2泊後,午後3時30分の便に乗りカトマンズへ戻り,再びエベレストホテル泊.翌日9時過ぎにノコノコ起き出した.そして航空券をあらためてよく見ると日本直行ではなく,一日目はタイのバンコック迄.翌日の朝,日本へ出発となっている.『これは大変,バンコックで一泊しなければならない!』
そこで急いで近くの自転車屋でレンタサイクルを借り,航空券を購入した旅行代理店へトランジットバウチャー(Voucher,宿泊等のクーポン券)をもらいに走った.すると店長らしき男は気の毒そうに言った.
「この航空券は学割なので,その適用は受けられません」
通常ならそこであっさり諦めてしまうが,そこはケチがしっかり身に付いた私.「それでは困る.帰れないじゃないか!なんとかしてくれ!」
としつこく粘った.店長は航空会社に電話している様子だった.電話を終えると書類に何やら記入サインして,これを持ってタイ国際航空の支店へ行くよう指示された.直ちに自転車を走らせ支店へ.すんなりバウチャーを発行してくれた.これでバンコックでのホテルの滞在費,タクシー代,食費はすべて航空会社が負担してくれる.フー,ヤレヤレひと安心.
 一旦ホテルへ戻ってから不要となった寝袋をバザールで売ろうと,再び出掛けることにした.寝袋を抱えてホテルを出てほんの数十メートルも歩かないうちに,早くも現地人に声をかけられた.彼は路上で寝袋を広げて丹念に点検した.最初買値70ルピーと言っていたが,100ルピーまで引き上げ成功.
 この売上金でもう少しましな高級ホテルに移ることにした.早速「ホテルグリーン」のトイレ・シャワー付ツインルームにチェックイン.ホテルのマスターは「学割だぁ!」と景気よく宣言して50ルピーの所,30%オフの35ルピーに負けてくれた.ひとりで泊まるには勿体ないくらい広々してる.
 次いで靴も新調することにした.ロンドンで買った靴は哀れにもほころび始め,小さな穴が所々空いていたからだ.新品の革靴を小脇に抱え,みやげ物を物色しながら町の目抜き通りをぶらついていた.すると偶然にもあのベナレスの悪友二人に,ばったりと出会った.もう二度と会うことはあるまいと思っていただけに再会を果たせたのは奇遇と言う他ない.彼らも今年中に帰国するそうだ.その夜は気が置けない友と共に,中華料理店で大いに語り大いに食らった.
 
 海外をバイクでツーリングする気分を,ほんの少しでも味わってみようと思い立った.そこで日本へ旅立つ前日,ホンダCB150のバイクをレンタルした.行き先はヒマラヤ山脈が見える場所迄と決め,ヒマラヤへ至る主要道にバイクを乗り入れた.郊外に出ると段々畑が広がり,のどかな農村風景が続く.カトマンズから約30km離れた峠で,私はバイクのエンジンを停止した.この道はさらにヒマラヤを越えチベットを縦断して,はるか中国へと続く.遠い国に思いを馳せながら望むヒマラヤ山脈は,国を隔てて立ちはだかる“白い壁”に見えた.帰りは方々道草を食いながら,空港に立ち寄ったりして戻ってきた.

 <いなかの子供たち>

 
 カトマンズ最後の夜,彼らはささやかなお別れパーティを開いてくれた.場所は私の部屋.飲食物はルームサービスで注文することにした.一同,何から話していいか言葉に詰まった.一晩や二晩では到底語り尽くせないほど,聞いて欲しいこと,また聞きたいことなど山ほどある.それなのに何故かうまく言葉に出せない.結局,とりとめもない世間話となってしまう.それでも話に花が咲き,大いに盛り上がった.最後はやはり「旅」の話題に移った.自慢話,苦労話,失敗談など一向に話は尽きそうもない.とうとう夜も更け,残念ながらお開きとなった.別れ際“ベナレスの政”がポツリと言った.
「旅はどうしてこんなに面白いのかなぁ?」
私はしばらく考えてから答えた.
 
「友がいて・・・そして帰る家があるからさ・・・」
 
 
 このようにして一つの旅が終わりを告げた.12月15日,私は寒風吹きすさぶ深夜の大阪国際空港に降り立った.ポケットの隅っこには,小さく折りたたんだ一万円札が残っていた.これは大阪から徳島の我が家に帰る旅費として,大事にとって置いたものだ.
 
 
 
(2004年3月記す)
−終わり−




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