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(総文字数 約18,700文字)
南米の旅

 8月23日午後6時15分、成田空港よりロサンゼルス行パンアメリカン航空(倒産して今はない)のジャンボ機に乗り込む。約9時間のフライトでロス着。ここで一旦入国の手続きをしてからマイアミ行きの国内便に乗り換えなければならない。当然のことながらアメリカのビザを持っていないので、入国手続きに少々手間取り待機さされる。結局トランジット扱いで係員が常時監視、飛行機に乗る迄片時も離れない。トイレにまでベッタリくっついて見張られる。やはり不法入国者が多いせいか?パスポートを取り上げられ、飛行機への搭乗も一般客とは別に、真っ先に乗せられる。ロス→マイアミ間4時間30分。そしてマイアミ空港でも同様に、リオデジャネイロ行きの便に乗り込む迄、しっかり警護?され自由はなかった。
 マイアミ22:30発、翌朝ブラジルリオ7:25着(現地時間)。ここでさらに別の便に乗り換え約50分の飛行の後、やっと目的地サンパウロのコンゴニアス空港に到着した。あぁ〜しんど、疲れた!まる三日間も飛行機の狭い座席に座っていたことになる。日本から見ればブラジルは地球の裏側に位置するだけあって、果てしなく遠い。直行便ならもう少し短縮出来るだろうが、何分運賃が高すぎる。そこで当時最も安価だったパンナム航空を選んだ次第である。
 空港で入国手続きを済ませ、手荷物を全部開けらされて検査を受ける。空港でまず200ドル両替の後、タクシーでホテルへ向かう。最初に泊まったホテル・アウグスタパレッセは、英語さえも余り通じない。なにかと不便なので2泊の後、日本語が通じるニッケイパレッセに移った。サンパウロでは市内観光、ボリビアへの飛行切符購入やらで多忙な日々を過ごした。当初ブラジルを先に回るつもりでいたが、ボリビア→ペルー→ブラジルの順に変更した。ボリビアのビザが発行日より1ヶ月以内に入国しないと無効となるからだ。
 


−ボリビア・BOLIBIA−
 
サンタクルス(SANTA CRUZ)

 8月28日、サンパウロ市中にあるコンゴニアス空港よりボリビアへ向けて飛びたった。なおサンパウロにはもうひとつ、国際便専用のビラコッポス空港があるが、これは100kmも離れていて不便極まりない。2時間40分後、サンタクルスのビルビル国際空港に到着。この空港は日本の技術援助で完成した新空港である。そのせいか使用されている設備機器類は、トイレに至るまでオール日本製であった。日本製品の信頼の高さはダントツのようだ。
 この町はボリビア第3の都会で周辺地域の農産物の集産地であると共に、各官庁の支所や大学、病院などがある文化都市でもある。市内はほとんど石畳道路で、思いのほか街は整備されている。しかし、これと言った観光名所はないようだ。1日ツアーがあるかどうか現地の旅行会社(島ツアーズ)で聞いたが、ツアーなど行われていなかった。仕方がないので歩いて見て回る。市の中央広場に近い公園のベンチで2時間余り座っていた。
 首都ラパスまで一気に飛ばず、サンタクルス(標高416m)で飛行機を降りたのには訳がある。その訳とは高山病予防の為だ。ここから首都ラパスまで、バスで時間をかけてゆっくりと行く計画にしていたのだ。そうすればラパスに着くまでに、体も高地に順応するであろうと考えていたからである。ところが島ツアーズで聞くと、バスは夜行便しかないという。夜出発して中間地点であるコチャバンバに翌朝着き、またその夜、そこからラパスへ出発するという。そんな訳で結局バスは諦めて飛行機に変更。ジェット機で約50分、運賃は日本円にしてたった2100円!
 
ラパス(LA PAZ)

 8月30日、7:30サンタクルスよりラパスへ飛ぶ。途中アンデス山脈上空を飛び越える。雪を抱いたアンデス高峰の素晴らしい風景を存分に楽しむ。
 標高4100mのラパスエル・アルト国際空港に降り立った瞬間、なにか息苦しくめまいがしてきた。じっとしていれば、どうということはなかったので、これは大丈夫だと安心していた。市内へは私と同じホテル(Hotel Libertador)へ向かう人と相乗りタクシーで向かった。高速道路経由で平原を走ると、やがて広い半円に近い形の谷に出る。そこが首都ラパスだ。タクシーの運チャンは市街を一望できる道路際で車を停めてくれた。高層ビルが建ち並び、思っていたより近代的な都市である。
 その夜からひどい頭痛に見舞われた。どうやら恐れていた高山病の症状がでてきたようだ。しかし、のんびりと休養などしている時間はないので、翌朝、早速ガイドとハイヤーを雇い、市内観光及び市外の遺跡巡りを強行実施。この女性ガイドは大阪万博の時、コンパニオンとして日本に行ったことがあると言っていた。そして旅行社を通さなければ、ガイド料は半額でよいと付け加えた。名刺を貰ったので今度来ることがあれば頼むとするか・・・
 標高4400mの峠まで足を伸ばし、アルチプラノと呼ばれる高原を見下ろす。12月〜3月の雨期には激しい雨が降りつけ、この褐色の高原が緑一色になるというから驚く。この高原に生える草を食べて育った牛の肉は、世界で最もおいしいとされている。事実レストランででっかいビフテキを食べたが、軟らかくて味はとびきりよかった。ただ残念なことに食欲が無かったので半分以上残した。皿の上に残ったそのステーキ目がけて少年が駆け寄り、鷲掴みにして走り去ったのには面食らった。

 <アルチプラノ>

 一枚岩の‘太陽の門’があるティアワナコ遺跡も標高4000m以上の高地にある。太陽の門上部に斜めに走る亀裂は、雷が落ちたためらしい。この遺跡はインカ文化より古く、その巨岩がどこから運ばれてきたのか、未だ不明である。いずれにせよ調査費用が計上されないので、まだ全体の10%程度しか発掘されていないらしい。歩いて見て回るのは非常にきつく、息切れがして途中何度も小休止。その上、市内を出ると未舗装の道路が続き、車が揺れるたび頭にガンガンひびき、えらい目にあった。
 ラパス市内の道は大抵急勾配に登っており、ここの住民、主にインディオは斜面に住んでいる。一方白人は、空気の濃い低地の市中心部に住んでいる。インディオ達は、毎日町の中だけでも900mも登り下りしなければならない。彼らのの市場は斜面のそのような急勾配の路地にあり、あらゆる種類の品物が売られている。なかには電気製品(主に日本製)ばかり売っている一角もある。このように物資も豊富であるが、そのほとんどが密輸されたものだという。路上には車がひしめき合い騒然としている。日本製の車も多く見かけた。

 <ラパス市内>

 とにかくラパスにないのは火事ぐらいだそうだ。ラパスは標高3800mにある。大気中に含まれる酸素は21%で、500m上がるごとに21%の内、1%ずつ少なくなる。3500mで7%、すなわち酸素が全体の30%不足していることになる。このため通常のライターでは着火しない。ただし発火石を使用した火花の大きなもの(ジッポー)は心配なさそうだ。
 ムリリョ(対スペイン戦争の英雄)広場にある国会議事堂は美しい白亜の建物である。立派な紋章の上にある時計が壊されている。これは半年ほど前に反政府ゲリラによって砲撃を受けたためだ。つい3ヶ月前には大統領が誘拐される事件が起きたと云う。なんとも物騒な話だ。中南米一政情不安定な国という事実がよく判った。反面、治安はペルー・ブラジルよりもずっと良く、思いの外安心して町を歩くことが出来た。
 ボリビアでたった一人だけ日本人と出会った。その人(鈴木さん)はある宗教団体の派遣で、3ヶ月程前に医療指導(歯科)の目的でサンタクルスへやって来たそうだ。ところが病院には医療器具が揃っておらず、結局うまくいかず、それでもう帰る積もりだったらしい。その前に折角来たのだから、ボリビアを見ておきたいと思ったのでラパスへやって来たと言った。彼の話によると、インディオ達の歯はすごくきれいで虫歯一本無いという。インディオには歯を磨く習慣はないが、コカの葉っぱを常にかじっているので、多分それが一つの要因であろうと話してくれた。
 
チチカカ湖(TITICACA)

 ラパスでは3日間滞在したが、ついに高山病は直らないまま9月2日、ペルーのクスコへ向けて出発することにした。クスコまでは今回の旅行中、唯一陸路のコースを選んだ。約束の時間より1時間以上遅れて、午前6時にツアーのマイクロバスが、ホテル前に迎えに来てくれた。一路チチカカ湖畔の町ワタハタへ出発。私は車中ひどい頭痛に絶えず悩まされ続けた。ワタハタの連絡船発着場前にある食堂にて朝食。
 ボリビアとペルーの国境にまたがるチチカカ湖は海抜3812mもの高地にある。その大きさは琵琶湖の12倍!その巨大な神秘の湖を水中翼船で航行。途中、古代インカ皇帝の出生地といわれる“太陽の島”に立ち寄る。インカ時代そのままの古びた石段を喘ぎながら登っていくと、伝説上で若返りの命水とされる泉がある。さらにその上の最高部まで登ると荒れた畑がある。ジャガイモでも作っていたのだろうか?ちなみにボリビアはジャガイモ発祥の地とされている。観光しながら水中翼船で湖を巡った後、コパカバーナに一旦寄港して出国手続、次いでペルー側出入国管理事務所のあるフリで上陸、ここからペルー側に入国した。フリは小さな村で、辺りは管理事務所がポツンと建っているのみ。手作り民芸品を売るインディオ達が大勢集まっていた。
 


−ペルー・PERU−
 
プーノ(PUNO)

 以降、湖畔に沿ってマイクロバスは走る。途中、湖を見渡せる食堂に立ち寄り昼食となる。ツアー客みんなでテーブルを囲み食事となったが、私の食欲はいまひとつ。この道中でアメリカからの家族連れ、それに日本に3回来たことがあるというアメリカ人神父夫妻と知り合った。なお、この神父さんは私がインディオから土産を買おうとしていたとき、値切るのを手伝ってくれた。
 標高3870mの町プーノのホテルには午後2時半に到着。部屋に入るとすぐにベッドに倒れ込み、いつの間にか眠ってしまった。21:30頃眼が覚めたのでロビーまで下りて行きフロントで両替する。夕食時間はとっくに過ぎている。どうせ食欲がないのでどうでもいいが。そこでマテ茶を注文して飲む。マテ茶はコカの葉っぱなので高山病によく効くらしい。相変わらず頭痛はひどい・・・
 
プーノ→クスコ列車の旅

 翌朝8時、チチカカ湖畔プーノ駅よりクスコ行きの列車は出発する。定刻より15分遅れで発車。列車は雄大なアンデス山脈コヤオ高原を越えて、意味の無い停車を繰り返しながら、ゆったりと走る。時には50分も停車する!車内にはヨーロッパ(主にドイツ、フランス)からの若い旅行者が目立つ。彼らは自国語の他にスペイン・ポルトガル語はもとより、英語も流暢に喋っていた。片言の英語しか話せない私にとっては、全く羨ましい思いがした。しかも彼らは極めて詳細なガイドブックを持参しており、上手に安く旅を楽しんでいるようだ。私の知る限りでは、そのようなガイドブックは日本では発行されていない。思うに私は、今までかなり無駄な出費をしてきたことは確かだ。
 私と同席したフランスからの男子学生3人組ともいろいろ話した。彼らは車内販売で買ったパンや果物を分けてくれたり、同じ宿に一緒に泊まらないかと誘ってくれたりした。フランス人にしては意外と親切である。宿に関してはラパスの日系旅行社(島ツアーズ)で既に予約(TAMBO HOTEL)を入れておいたので、残念ながら断った。クスコ到着は暗くなった夕刻6時過ぎであった。
 
クスコ(CUZCO)

 クスコ(“へそ”の意)周辺には遺跡が沢山あり、それらを見てまわるのにジープをチャーターして行く手段もある。彼らフランス3人組はジープをチャターするので一緒に行かないか、と誘ってくれた。しかし私にはそんな時間的余裕がないので、仕方なく断わざるを得なかった。彼らと一緒に旅すれば、面白かったであろうに誠に残念である。このグループとはこの後、クスコ、マチュピチュでも出会った。
 クスコに着くとあれほどひどかった頭痛もすっかり収まり、食欲も回復してきた。やはりラパスより低地にあるからだろう。低いと言ってもクスコは標高3400mにある。クスコ市にはいわゆる日本でいうところの建築基準法があり、建築物は法で規制されている。ここでは高層ビルは見あたらず、官庁・銀行・ホテルなどすべて3階以下の低層に抑えられている。屋根は赤茶色の粘土を900℃前後に焼いた瓦で葺くよう規定されている。街並みは当時のまま保存されているようだ。
 市内の遺跡は歩いて見て回ったが、近郊に位置する遺跡はツアーを利用した方が効率がよい。そこで日系旅行社(金城旅行社)の主催するツアーに参加した。このツアーの入場券(ツアーとは別料金)は、2日間有効である。クスコ周辺の遺跡を含めて、ほとんどをセットにしている。今回の見学はその内の3分の1弱。全部見るには2日では足りないだろう。ガイドは日本人の篠田さん。彼はペルーに来て既に5年を過ぎようとしているとのこと。私は数々の疑問点を取り上げ、ガイドを質問攻めにした。以下,彼の意見も取り入れた遺跡に関する要約。
 ペルーも遺跡に関する十分な学術調査は、ボリビア同様、未だ行われていない。市内にはインカ時代の石組みが残されており、これをそのままスペイン人が家や寺院を建てる時に利用した。それが現在、石畳道路とともに数多く見られる。石畳については、四角い石を敷き詰めたのはスペイン植民地時代以降のものであり、インカ時代のそれは丸い石であったという。しかし現在、ほとんど残っていないようだ。インカはまたボリビアのティアワナコ遺跡などの都市の成果を、受け継いだものと言われている。
 市内を見下ろす丘の上には、サクサィワマン遺跡(13世紀頃)がある。クスコの要塞であったサクサィワマン(“鷹を喜ばせる場所”の意)の、三つの階段状になった長さ約500mのジグザグ状の石垣の壁には、様々な形の岩塊がしっくいを使わずに巧みに積み重ねられている。大きな石は高さ5.2m、幅3m、重さ180tもあり、このような巨岩が隙間もなく互いにぴったりくっついているのには唖然とする。石の魔術師と言われたインカ人に対してさらに興味が湧く。石垣のコーナー部分をじっくり観察すると、ゆるやかなコーナーを描いて隅で互いに縁が切れないよう、一体の岩を置いている。地震に遭ってもインカの石組みはビクともしなかったことがよく理解できる。しかし、注意深く見渡すと少しずれている石もある。やはり作用した応力を逃がす部分が、どこかに必要なのだろうか?
 このサクサィワマンはボリビアのティアワナコと違って石切場は存在する。しかし35kmも離れており、さらに車や鉄を知らなかったインカの人達は、どのようにして石を運び積み上げたのか?他の巨石文明同様、明快な説明はなされていない。また、この砦からクスコ市内に通じる地下道があるが、危険なので現在閉ざされているという。
 サクサィワマン要塞より更に高く、標高3750mまで上っていくと、タンボマチャイの遺跡がある。ここはインカの神聖な水浴場とされている。下部の2段の石垣から澄み切った水がこんこんと湧き出ており、その水は年中一定量、一定水温であるという。未だにその水源は発見されていない・・・ということになっているが、実はここより奥5kmのところに2つの湖があり、そこからサイホンの原理を利用して水路で引いている、というのが地元の有力な説である。それが真実かどうかを探る調査はなされていないという。すべて明らかにしてしまったのでは、興味が失せるし面白味がない。やはりある程度疑問点を残しておくのが、想像力も拡がってロマンがあるというものではないか、と言うのはガイドの篠田さんの弁。なお、この水はクスコのビール工場へ送られているそうだ。クスコにある工場らしきものは、もうひとつ、クスコ郊外マチュピチュへの鉄道沿線にある肥料工場ぐらいであるとのこと。
 ツアーが終わってガイドの篠田さんとの別れ際、私は最後の質問を浴びせた。
「このペルーのどこかにまだ発見されていない大規模なインカ遺跡があると思いますか?」
彼は強い口調で答えた。
「そりゃ、絶対ありますよ!」
 夕刻、中央広場に面して建つカテドラルの前で写真を撮っていたら、あどけない顔をした少年が歩み寄ってきた。手を差し出してしきりと何か訴えている。どうやら私に金銭の要求をしているようだ。小銭はないかとポケットを探っていたら、ひとりの年配の紳士がつかつかと歩み寄って来た。そしていきなり少年の腕を掴み、大声で厳しく何か注意しだした。恐らく「物乞いするな!」と叱っていたのだろう。少年は可哀想に遂に泣き始めた。何かしら考えさせられるワンシーンであった。
 
マチュピチュ(MACHU・PICCHU)

 マチュピチュ(“古い峰”の意)遺跡はクスコ市の西北112km、アマゾン川源流にある。クスコサンタアナ駅を出発した列車は、何度かスイッチバックを繰り返しクスコ市内を見下ろす丘の上まで登る。以降高原をひた走り、ウルバンバ川に沿ってだんだんと高度を下げながらマチュピチュへ向かう。なお、この川は途中ウカヤリ川と名を変え、アマゾン川へ注ぐ。この辺りまで来ると植生は熱帯ジャングルの様相を呈する。約3時間半でマチュピチュ到着。
 マチュピチュ駅(標高1700m)よりマイクロバスでジグザグの道を14回折れて、一気に700m登る。この埃だらけの道は、1911年、偶然に遺跡を発見した米国エール大学教授の名を冠してハイラム・ビンガム道と呼ぶ。この道を登り切ったところにマチュピチュの遺跡(要塞)がある。
 この遺跡の前にそびえる山がワイナピチュ山(標高2700m)である。その山頂まで登山道がついており、45分くらいで山頂へ行けるというので登ってみることにした。しかし、日頃体を動かしていない上、ものすごい急坂の連続で、足はガクガク。おまけに途中道を間違え、断崖絶壁の旧道を恐る恐る通過したり、蜂の大群に出遭ったりでチョットしたレイダース気分に肝を潰す。現実は本当に怖い。それでもなんとかあえぎながらも頂上に達することが出来た。山頂付近にも遺跡があり段々畑の跡まであった。インカ人はすごい所で生活していたものだと改めて感心させられた。
 マチュピチュ遺跡の特徴は、泉から水を引き周囲を段々畑で取り囲んで完全に自給自足出来る、という点である。段々畑は戦争の時、石投げや弓矢で敵を追い落とす仕組みになっている。インカ人は2〜3階の建物や塔を造ることは知っていたが、アーチの造り方を知らなかった。そのため屋根はみなワラで葺いたため神殿、宮殿、住居跡は壁のみしか残っていない。壁にある四角いへこみは神の像を祀ったり、供物や灯を入れるためのもので、インカ建築の特徴のひとつである。ワイナピチュ登山をしたので、時間の余裕がなくなり遺跡は駆け足で見て回った。観光客が駅に帰る頃になると、いったいどこから集まったのか、駅前には土産を売るインディオ達でごった返していた。

 <マチュピチュ駅の土産売り>

 
リマ(LIMA)

 9月6日、クスコから国内線フォーセット航空で空路ペルーの首都リマへ飛ぶ。機種は今となっては珍しいダグラスDC−8。リマで泊まったホテル・グラン・カステルの横にカフェテラスのような店があったので、早速入ってみる。ビールを注文したが、さっぱり通じない。メニューを見せてくれと英語で言ってもさっぱり要領を得ない。えらい店に入ってしまったと後悔しながらもケースのビールを指さして「ビール!」と叫ぶ。すると店の大将は、なんと!日本語で「冷たいの?」と聞いてきた。
 その人は沖縄出身で、ホテルはおじさん(大城さん)が経営しているという。このホテル(地上8階・70室)を建てることが出来たのは、“頼母子講”という一種の講で儲けたからだと説明してくれた。ペルーでは銀行に預金すると60%以上の利子がつくが、それ以上にインフレが激しく進行しているので損をするらしい。ペルー通貨を持っていても何ら価値がないので“講”に投資するか、アメリカドルに換金しておく方がずっと確かであるという。
 リマには日系人、特に沖縄より移住した人が多くいるようだ。移住者名簿も発行されているので見せてもらったが、徳島県出身者はいなかった。日本語とスペイン語の2カ国語で印刷された“ペルー新報”という新聞も発行されており、第一面には日本の出来事(政治・経済・事件・スポーツ等)を載せている。だから日本の諸事情については、リアルタイムで詳細に把握している。また“ふるさとだより”という欄もあり、沖縄の町や村の小さな話題を取り上げていた。やはりいつまで経っても,またどこに居ようとも故郷日本のことが気に掛かるものだなぁ、と痛感した。ペルー人であると同時に日本人でもあるのだろう。
 次の日の夕方もこのカフェテラスへ赴き、特別料理の焼きそばやら焼き肉を食べさせてもらう。彼とは話が合って夜中12時過ぎまで一緒に飲む。その後ビンゴというゲームをやらないかと言うので、一緒に付いて行くことにした。今、ペルーではビンゴが大はやりで、体育館ほどの広さのゲーム場が、市内に7〜8カ所あるらしい。数字合わせの単純なゲームであるが、1枚500ソル(約30円)で購入したカードの数字が全部合うと、10万ソル以上になって返ってくる。私も一度ビンゴ!を当てたが、手を挙げるのが遅かったので、もう一人当てたという人が出てきた。そのため、この場合2等分して56,200ソルを手に入れたが、生ビール片手に朝5時までゲームをしたのですっかり使い果たしてしまった。“悪銭身に付かず”とはこのことだ。
 リマ市街は意外と雑然としている。市内の要所要所には機関銃を持った軍隊、装甲車が警備している。夕方近くになると歩道には、ありとあらゆる種類の露店が一斉に店開きする。どっと人が繰り出して、まるで祭りみたいな喧騒を呈する。騒音、排気ガスがひどく、車は何十年も昔のアメ車のポンコツばかりである。運転も滅法荒っぽく、道路横断時は特に気をつけなければならない。歩行者が横断歩道を渡る時は、例え信号が青でも常に右折左折の車に注意していなければ、はねられそうになる。完全に車優先社会なのだ。そのためか町の入口とか交差点、学校・住宅区の道路上横一直線に凸部又は大きな鋲が打ち込まれている。強制的に車のスピードを落とさせるようにしているのだ。時折、これを知らないドライバーが突っ込んで、車を壊すことがあるらしい。このような道路設備はブラジルでもよく見受けられた。
 この頃になると高山病は完治していたが、歩行時フラッとふらつく後遺症が残っていた。そんなこともあってリマ近郊の観光は、旅行社の主催する一日ツアーに参加した。そのうちのひとつ、リマ市より32km南下すると砂漠の丘にパチャカマク遺跡がある。パチャカマクとは天地の創造者という意味で、約3千年前に造られた神殿都市と言われている。征服者のインカ族は何故かここを破壊しなかったらしい。この遺跡から見下ろす砂漠の中に、南北に延びる一本の道路がある。これがパンアメリカンハイウェイであり、ペルー海岸沿いにナスカを経由して遙かボリビア、チリ方面へ通じている。
 リマでブラジルマナウス行きの切符を買おうとしたが、飛行便は1週間に一度、木曜日にしか出ないという。これから5日間も待たなければならないので、急遽リオデジャネイロへ予定変更する。ここで予定の2倍近い出費をしてしまった。さらに悪いことにペルーでは外国人に対してのみ、航空券に20%(国内、国際便共)の税金を掛けている。これは大きな誤算であった。8月24日サンパウロ到着以来、金のことはあまり気にせず使っていたが、ここで初めて所持金の心配をした。まだこれからブラジルを18日間旅しなければならない。残念であるが、楽しみにしていたナスカの地上絵遊覧は取り止めることにした。なおナスカの地上絵はバスを利用すると安いが、3日間かかるのでこれも取り止め。以降、ホテルのランクを4つ星から3つ星以下に落とし、ケチケチ旅行に切り替えることにした次第である。
 


−ブラジル・BRASIL−
 
リオデジャネイロ(RIO DE JANEIRO)

 9月9日、リマホルヘ・チャベス国際空港から定刻より2時間以上も遅れて9:45飛び立つ。機内でもビンゴゲームが行われ、その熱の入れようは尋常ではなかった。途中サンパウロビラコッポス空港に寄港して、リオには17:20着。ホテル(HOTEL INGLES)は空港に掲示してあったリストのうち、3つ星クラスから適当に判断、タクシーで連れて行ってもらった。
 翌朝、早速地下鉄でリオブランコ大通りへ。ここはリオのビジネスとショッピングの中心地である。なおリオの地下鉄は2本あり、1号線は冷房付車両が使用されている。その理由はリオの人達はすぐ熱くなり頭に血が上り、騒ぎを起こしやすいからだという。2号線は冷房は付いておらず、その上揺れが激しいので評判は悪いらしい。さて、ひとまず住友銀行リオ支店へ行ってみよう。日本人らしき行員に声をかけ、両替について聞いてみる。その行員は開口一番、こう切り出した。
「ここは物騒な町だから絶対一人歩きしないように、旅行者みたいな恰好をしないように、また荷物は体の前で抱えてしっかり持つこと。もし運悪く強盗に出会ったら直ぐさま金品を差し出すように、そうしないと金は取られるし命まで取られてしまいます」さらに
「両替なら銀行より両替屋でするほうがずっと得ですね。ホラ、この通りの向こう側にありますよ」
と親切にも貴重な忠告・アドバイスを受けた。両替の後、ヴァリグ航空(ブラジル最大の航空会社)オフィスでサルバドール行きのフライト予約をする。
 一旦ホテルへ戻ると私の部屋は無くなっていた。どうやら満室で昨晩しか宿泊できなかったようだ。早速近くのホテル(HOTEL MONTE BLANC)を紹介してもらい移る。このホテルで2泊したが、どうも居心地が悪くシャワーの湯も十分に出ない。このシャワーは固定ヘッド自体が電気式瞬間湯沸器みたいになっている。ヘッド内部にニクロム線とON−OFF用のダイヤフラムが内蔵されているようだ。南米では風呂よりももっぱらシャワーを浴びる習慣が定着しているらしいが、安全面で大いに不安があるので後日サンパウロで聞いてみた。
「感電の心配はないのか?」
「今まで事故が起こったという話は聞いてません。けど、アースを取ってなければバルブに触るとビリビリッ!とくることがあるみたいだね」
ああ、何と恐ろしい!要注意だ。さて、今度は日系の旅行社(ツニブラ)でホテルを紹介してもらう。4つ星ホテルHOTEL NOVO MUNDO。バス付で設備もサービスもぐっと良くなる。やはり最初からこのクラスにしておけば良かった。チップは必要となるが・・・
 リオは世界三大美港のひとつであり国際的な観光都市でもある。見どころにはこと欠かない。昼間の観光及びナイト観光はツアーで済ました。なお、リオでは4日間滞在したが、幸い何事も起こらず事なきを得た。ヤレヤレ一安心。
 
サルバドール(SALVADOR)

 9月13日、リオガレオン空港定刻(7:45)発、サルバドール9時30分着。何はさておき、まずホテル(HOTEL BAHIA DO SOL)へ。一息ついた後、タクシーでヴァリグ航空オフィスへ。切符手配は時間は掛かるし面倒なので、ここで以降の旅程(サルバドール→ブラジリア→マナウス→イグアス→サンパウロ)のチケット及びホテル予約をすべてやってもらうことにした。もっと早くこのことに気付けば良かったのに・・・
 サルバドールはバイア(BAIA)州の州都であり、1763年までブラジルの首都でもあった古い町だ。市街は海沿いの下町と、丘の上の山の手に分けられる。興味深いことには、この両地区を結ぶ交通手段としてエレベーターが使用されている。塔が二つあり合計4基のエレベーターがフル稼働されている。そこから少し離れたところにインクライン(斜行エレベーター)乗り場がある。どちらも運賃は20クルゼイロCR$(約2円)と非常に安い。新開地“下町”は主に商業地区、一方“山の手”には歴史的建造物が多く、中世そのままのたたずまいをみせる。かってポルトガルの総督府が置かれていた要所だけに要塞も多くあり、私が見ただけでも5ヶ所あった。このようにサルバドールは、ブラジルの他の都市にはない一種独特の雰囲気を持った街であった。
 
ブラジリア(BRASILIA)

 9月15日、ホテルインペリアルに10:30到着。チェックインと同時に本日午後のツアーとナイトツアー、それと明日午前のツアーを申し込む。ツアーで概略を見ておき、その時興味のあったものに目星をつける。後で再度じっくりと個人で出掛ける、という具合だ。
 そもそも南米に来た最大の理由を、遅まきながらここで説明しておこう。‘国際感覚を身につける’目的で設けられた『海外視察自主研修』という制度が職場にある。実はその制度をフルに活用した訳である。題して“南米の都市事情及び建築の視察”。本来視察と言えば欧米の先進地を訪れるのが通常であるが、それらは文献でもメディアでもよく紹介されている。一方、南米には歴史的にも建築学的にも重要な見どころに富む建築が数多くある。何も先進国ばかり行くのが研修でもあるまい。以上のある種のこじつけた解釈を研修理由とした訳だ。しかし、この大義名分があったからこそ、そしてこれを恰好の楯にしたからこそウチのカミさんも周囲も渋々承知してくれたのだ。そんな訳でここブラジリアは、最もその趣旨に添う都市のひとつと言えよう。特に入念に、且つ性根を据えて観察・考察しなければリポートも書けなくなる恐れがある。ここでどこかの議員さんとか首長の全額公費での‘海外視察’とは全く異なることを、強調して断っておかねばならない。旅費は全額自費であり、貰ったのは1ヶ月の特別休暇のみ。のんびりと物見遊山などして居れないのだ!以下リポートの抜粋。

 <ブラジリアの幹線道路>

【リポート】
 首都ブラジリアは1956年、新首都計画のための都市設計協議において、フランス生まれのブラジルの建築家、ルシオ・コスタによる案が優勝したことに始まる。1957年建設着手、わずか4年後の1960年に遷都した。
 ブラジリアはよく鳥あるいは飛行機に例えられる。事実、都市自体が鳥型をしており、それを取り囲むように周囲に湖が広がっている。鳥に例えるならば頭部が記念公園、尾部が国会議事堂と議会事務局のある三権広場、胴体部に立法、司法、行政機関を配置し、長くカーブした両翼部に近い部分にはホテル、銀行、劇場、商業の各地区が続く。さらに住居地区があり、この地区は大きなブロックに分けられている。各ブロックには集合住宅、学校、教会等の建物が配置されている。都市の中心、すなわち胴体と翼がクロスした場所にバスターミナルがあり、各地区及び全国に路線が延びている。なお、ブラジルは鉄道の発達は遅れているが、長距離バスは非常に発達しており、バス会社は競争でデラックスバスを運行させている。ちなみに鉄道は、5種類もの異なった軌道幅がある。
 数ある超近代的な建築群のほとんどは、国連ビルの設計者であるブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーのグループによって設計された。私が最も興味を抱いたのは中央大聖堂である。円形に中央に建ち上がっているコンクリートのリブ群で構成され、その外側周囲には池がめぐらされている。ニーマイヤーはガラス屋根の内側にもう一層、ステンドグラスを取り付けるつもりでいたが、まだ実現されていない。そのため未完成の建物と言われている。この教会の特筆すべき点は、半地下方式を採用していること。地上から見える部分は屋根だけで、入口は階段を地下へ降りたところにある。ブラジリアにはこのような半地下方式の建物が他にもある。私の見学した建物では2万人収容の多目的屋内スポーツセンター、ブラジリアで最大のショッピングセンター、都市建設記念館などである。このような大規模建築も半地下式とは、まさに驚くべき事である。なお、半地下式建物はサンパウロでも見受けられた。
 ブラジリアやサンパウロ市内は起伏が多い地形である。そこに建築する場合、日本でやるように切り開き整地してから建てるのではなく、その地形(丘)を巧みに建築に採り入れ利用しようとする。そうした低層の建物は、遠くから見ると建物かどうか、あるいは建物があるかどうかも分からない。また、地面を掘り下げるか、または周囲を盛り土してその中に建物を配置し、周りを芝生や植物で飾るという手法もあった。単にデザインの奇抜さのみを追求しているのではなく、あらゆる建築手法を積極的に取り入れていることが伺える。ただ、根本的に日本とブラジルの地質は異なるので、これをそのまま同様に日本に取り入れることは出来ないだろう。
 ブラジリアはルシオ・コスタによる優れた都市プラン、オスカー・ニーマイヤー設計による斬新なデザインの建築により、21世紀を先取りした都市を思わせる。道路網もよく整備され、市内どこへでも極めて短時間で行くことが出来る。“渋滞”という言葉はここでは必要ないと思われる。しかし建物の間隔をあまりにも広く取っているため、普段生活している人達にとっては田舎のような不便さがあることも否定できない事実だ。都市機能としては実に理想的で申し分なかろうが、自然発生的に成長・発展してきた“街”とは根本的に一線を画す。いわゆる人間臭さが感じられない冷たい街であり“住む”には適していない。
−リポート終わり−
 
マナウス(MANAUS)

 9月17日、ブラジリアより2時間25分の飛行の後、マナウス13:20到着。タクシーにてホテルへ、チェックイン。赤道直下なのでかなり熱いと覚悟していたがそれほどでもない。3時頃から停電となったので町へ出てぶらつくが、雨が降り出したので急いでホテルへ戻る。停電は8時まで続いた。本日はビールを飲んで9時頃眠る。
 昨日、タクシーの運チャンにアマゾン探勝ツアーを頼んでおいた。8時過ぎにその運チャンがホテルまで迎えに来てくれた。彼は気を利かしたのかどうか知らないが、日本語ガイドを呼んでくれていた。ガイドは既に観光船乗り場でスタンバイ。そんなもの不要であったが、今更帰れとも言えないので任せることにした。ガイドは小池さんという名で、年は30ちょい前ぐらい。幼少の頃、両親と共にマナウスに移住したらしい。ポルトガル人の奥さんがいるという。このツアーの正式ガイドから何度も「うるさい!」と注意されながらも、彼は一生懸命説明してくれた。なおこのツアーの昼食時に、生まれて始めてピラルクなる魚を食べた。ピラルクとは、アマゾン川流域に生息する世界最大の淡水魚である。油で揚げて調理してあったが,なかなか淡泊で美味かった。カヌーにも乗ったことだし、ほんのちょっぴりであったがアマゾン探勝の雰囲気が味わえた。
 ツアーは3時に終了。小池さんにオペラハウスまでの道を教えて貰う。桟橋より近いので歩いて行く。オペラハウスはマナウスの代表的建築物であるので、これは‘レポート’から外せない。19世紀末から始まる空前のゴム景気で繁栄していた頃の名残であり、建設には17年間費やし1896年完成、オペラが初演された。建築資材の大部分はヨーロッパより運ばれたものである。
 翌日10時過ぎ再度オペラハウスを見学に行く。昨日は時間が遅かったので既に閉館していた。館内の椅子に座り、往時の繁栄振りをしばし偲ぶ。その後、インディオ博物館へと足を伸ばす。その帰り道、珍しい交通信号機に目を引かされた。驚いたことに赤ランプが6個もあり、その間に青(緑)ランプが5個配置されている。ワイヤーで交差点上部に吊られている。しばらく観察するとしよう。赤から青に変わる時は、左から1個づつ順次赤ランプが消えてゆく。2個になった時、その間にある青ランプが1個だけ点灯する。2個の赤ランプが消えると一斉に残りの青ランプが点灯する。これで“進め”であるが、それ以前に信号待ちしていた車は、とっくに走り去っていた。
 
移動日

 9月20日午後2時30分、マナウスエドワルド・ゴメス空港よりリオ行きの便に乗り込む。途中ブラジリアへ寄港してリオ着20:30。イグアスへは明日の便を待たなければならない。空港ホテルで泊まろうと思いホテルを探すが、なかなか見付からない。やっと見付けチェックイン(LUXOR HOTEL)。トリプル部屋しか空いてなかったので1泊211,500CR$(約21,000円)!後で落ち着いてよく考えれば、待合室で一晩過ごせば良かった。リオのガレオン空港は24時間空港なのだ。あぁ〜もったいないことした。
 
イグアス(FOZ DO IGUACU)

 9月21日、定刻8:45発、A300型機は一度サンパウロに寄港してからイグアスへ。イグアス11:40着。ドイツ人旅行者と相乗りタクシーでホテル(HOTEL DAS CATARATAS)へ。この立派なリゾートホテルの真ん前に世界3大瀑布のひとつ、イグアスの滝が広がっている。ホテル前の広場から観光ヘリコプターが発着している。料金60,000cr$(6千円)。私が乗り込んだのは小さい方の2人乗り用(パイロット含む)。ドアはなく、安全ベルトは腰だけの簡単なもの。最初はカシャカシャと気分良く写真を撮っていた。が、滝の上空で旋回した時、その滝つぼの迫力もさることながら機体より振り落とされそうな思いがして体がすくんでしまった。席にしがみついているのが精一杯で、以降一枚も写真を撮ることは出来なかった。
 1時間ほど周辺を散策し後、今度はイタイプーダム見学のツアーに参加する。パラナ川上流に世界最大規模のイタイプーダムがある。その高さは200mもあり、コンクリート重量ダムとロックフィルダムを組み合わせた珍しいダムである。まだ工事中(一部運転)で、全設備が完成すればエジプトにあるアスワンハイダムの12倍の発電量を誇るとのことだが、深刻な経済不況による電力需要の落ち込みにより、その目処はついていないとのことだ.
 翌日、朝食を済ませ食堂を出ようとしたら小池さん夫妻とばったり出合った。小池さんとは昨日のツアーで一緒だった。彼から
「アルゼンチン側へ行くので一緒に行きませんか?」
と誘われたので、すぐにO.Kの返事。出発まで少々時間があるので滝を見物。11:45にチャーターしたタクシーに乗る。まずは下流のイグアス川とパラナ川の合流点、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3国が国境を接する重要地点を見学。イグアスの滝はこの合流点より25km遡ったところにある。パラグアイへは橋を渡っていけるが、アルゼンチンへ行くにはフェリーボートでイグアス川を渡らなければならない。フェリー乗り場の少し上流で両国を結ぶ橋が建設中であった。アルゼンチン側からも滝を見学したが、やはりブラジル側から見た方が断然迫力がある。より滝の近くまで行けるし、本流がブラジル側にあるからだ。
 帰路、小池さん夫妻は空港でタクシーを降りた。夕方の便でサンパウロへ飛ぶのだそうだ。本日の数々の親切に厚く礼を言って別れた。もう二度と会うこともあるまい。やはり『旅は道連れ世は情け』『袖摺り合うも他生の縁』というように、旅先では誰とでも容易に知り合いになれる。そこが旅の面白さでもあり楽しみでもある。要するに人類皆アミーゴ!なのだ。
 私はもう1泊するのでホテルまで送ってもらった。なお、このタクシーの燃料はガソリンではなくアルコールを使用している。最初はガソリンで走行、エンジンが暖まればアルコールに切り替えるという仕組みだ。やはりガソリン車に較べて若干パワーは落ちるそうだ。早速ボンネットを開けてもらいエンジンルームを覗き込めば、ウォッシャー液のような大きさのタンクがある。そこに始動用ガソリンを入れておくのだ。ガソリンスタンドにはガソリン、軽油の他にアルコールと書かれた給油口がある。ガソリンより安価であるし、何より原料はサトウキビなので無尽蔵。正に一石二鳥。ブラジルでアルコール燃料使用車が普及しているおおきな理由である。
 
サンパウロ(SAO PAULO)

 9月23日、再びサンパウロニッケイパレッセホテルに戻る(19:30)。翌日、パウリスタ大通りにある東京銀行に出向く。所持金が不足する恐れがあったので、ラパスで家内に送金を頼んでおいた。当初リマで受け取る手はずであったが、送金は間に合わなかった。そこでサンパウロ支店に転送するよう依頼しておいたのだ。送金1千ドル(当時1ドル約160円だった)は無事届いていた。ところが係員の話によると、ここブラジルでは外貨(米ドル)では渡せない規則であるという。今更、ブラジル通貨で受け取っても到底使い切れないので、やむなく受け取り中止。後でちょこっとひらめいた。『この際受け取って贅沢をしてもよかったかなぁ〜・・・』
 その足で父の古い友人である佐々木さんを訪ねることにした。住まいはサンパウロ郊外のサントアンドレー市にある。銀行前で客待ちしていたタクシーの運チャンにその住所を見せて「ここへ連れてって欲しい」と依頼した。すると運チャンはどう言う訳か難色を示した。どうやらこのタクシーは、市外では営業出来ないようだ。そこで「割増料金を払う」と伝えると一発OK。
 佐々木さん宅は閑静な住宅街にあった。連絡せずに訪ねたので、2〜3時間で帰るつもりでいた。ところが御夫妻の大いなる歓待を受け、さらに「今晩是非泊まっていきなさい}と勧められたので、その好意に甘えることにした。彼は昭和30年頃、農業移民としてブラジルに移住してきた。移住当初は奥地ジャングル地帯に住んでいたが、何分土地がやせて作物など満足に出来なかった。折角作物が生育しても害虫とか動物に食われ、さらに畑を耕せば頭大の石が埋まっている。その石を鍬で割ると内部は紫色をした水晶のようであったという。そんな石がゴロゴロ出てきたというから驚きだ。住まいは寝床から夜空に煌めく星が見えるほどのあばら屋だったらしい。サンパウロに出てきてからいろいろな職を転々とし、かなり苦労したようだ。しかし、ブラジルに移住した者はまだましなほうで、ドミニカとかボリビアに移住した者はそれはひどい目に遭ったということだ。事実、この近辺にもボリビアから逃げてきた者が数人居るという。それにしても佐々木さんは成功したほうと思う。広い敷地に1戸建ての住宅を構えているし、別棟には息子夫婦の家もある。その夜は遅くまでいろいろと語り合った。
 話は元に戻るが、このパウリスタ大通りは市一番の目抜き通りで、両側に銀行、大会社、商店などが建ち並んでいる。ブラジルには台風も地震もないので日本では到底考えられないような奇抜なデザインの建築が存在する。ブラジル建築の一般工法は、柱と床のみを鉄筋コンクリートとし、外壁及び間仕切り壁は穴明きレンガを無筋で積み上げて造る。スラブを配筋してコンクリートで打つのは比較的大規模建築である。通常スラブを格子状にして、その間に床用のブロック又は穴明きレンガをはめ込んでいく工法を採っている。こうすることでコンクリート、型枠、配筋が無くなり、建築コストの大幅な削減につながる。地震の多いペルーでも建築工法は同じで、1970年に発生したペルー大地震(M7.6)の時でも、別に被害は受けなかったという。
 ついでにトイレについても一言述べておこう。便器はロータンク付水洗便器がほとんどである。一般住宅及び少しランクの落ちるホテルのトイレには、片隅に大きめのカゴが置いてある。拭いた紙を捨てるためであり、便器には流さない。これには以下の理由がある。紙の質が悪く固い、便器がすぐ詰まる(トラップが狭く形状が悪い)、排水鋳鉄管の仕上げが悪く引っ掛かる(内部にバリがある)など。下水処理場が少ないのも大きな要因に挙げられる。簡単な処理をするか、そのまま直接海や河川に自然放流するらしい。広大な南米大陸だからこそ可能なのだろう。日本の山小屋の汲み取り式便所でも紙は傍らの段ボール箱に回収し、焼却処分しているところがある。こちらは量を減らす、腐敗を促進して分解を早める、臭気を少なくするという理由からだ。いずれにせよこの習慣は慣れないと抵抗があり、なかなか気になるものだ。
 サンパウロではよく地下鉄を利用した。現在、南北線と東西線の2路線がある。市中心部以外は高架になっており、これが地下鉄の駅かと見まがうほど広々としている。運賃は全線均一料金(約25円)で、切符の種類は1回券、10回券、バス又は電車との連絡切符の4種類のみで簡単明瞭。改札は日本からの技術導入によりすべて自動改札機を使用しているが、切符は駅員が窓口で売っている。そう言えば南米では自動販売機は一切見かけなかった。インフレが激しくしょっちゅう値段が変わる、硬貨の利用度が少ない、人件費が安い、すぐに壊されるといった理由が普及しない要因のようだ。
 サンパウロは言わずもがな、南米で最も多く日系人が住んでいる町である。その数約15万人。昨年、県の主催する研修制度で約10ヶ月間、徳島市に研修に来ていた二人の女性にも会うことが出来し、市内観光案内にも付き合ってくれた。その他数人の日系の若い人たちとも話をする機会があった。彼らは皆口を揃えて日本へ行きたいと言っていた。既に技術研修などで来訪したことがある者も、是非もう一度訪れたいと熱い口調で語っていた。数ある先進国の中でも日本が最もよいお手本であるらしい。ブラジルにあるものは何でも世界最大級のものばかりであるが、諸外国からの借金も世界最大である。それなのに今でもすべての労働者に対して1年に1ヶ月間、休暇を保障されているという。その反面失業者も多く、そのため5〜6年前から特に治安が悪くなりだし、現地の人でさえ安心して町を歩けない状況にある。サンパウロを訪れた旅行者に、まず最初にそのことを教えてあげなければならないのは、全く恥ずかしいことだとも語った。

 9月26日、コンゴニアス空港より余りにも遠くて長い日本への帰路についた。午後8時30分、クルゼイロ航空(パンナム提携)は漆黒の空へ飛び立った。私はサンパウロの夜景を飽きることなくいつまでも眺めていた。
 
 このように南米3カ国の主要な都市をせわしく駆け巡った。今回利用したパンナム便の大阪−サンパウロ往復チケットは安価ではあるがオープンではなく、搭乗日がそれぞれ決められていた。一度決めたら変更は利かず、しかも決められたその便に乗り遅れたら無効となる。これが“足かせ”となって日程には随分苦労したし、旅行中いろいろと気を揉んだ。やはり高くてもオープンチケットを購入すべきと痛感。一方、ブラジル国内ではヴァリグ航空が発行しているブラジルエアーパスを利用した。330米ドルで3週間乗り放題。さらに提携しているホテルは30%割引という特典もついている。機内サービスも結構よく、ヘッドホンで日本の歌謡曲も聞ける。ブラジルは航空路が発達しており、便数も多く、時間も正確で安心して利用できる。しかし、飛行機の旅はどうも味気ない。今回唯一陸路をとったラパス〜クスコ間の旅が最も印象に残っている。
 

−終わり−
 
(1984年8月23日〜9月28日実施)



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