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(総文字数 約9,800文字)

明日への軌跡シュプール

− 我がスキー人生 −
 
 『話そかな…話すのよそうかな…』と以前よりいつ話を切り出そうかと迷っていたのですが、どうやらまたとないチャンスが巡ってきたようです。このところの不況により暇を持て余していたので、フッとその気になり、やっとドッコラショッと重い腰を持ち上げた次第です。長い間ずっと温め続けてきたので、少々込み入った話となりそうですが、しばらくの間、聞いてやってください。まぁ、そんなにお時間はとらせませんから。あっ、ちょっと!そこのあなた!急に立ち上がってどこ行くの?
 
 そもそも事の発端は、今を去ること二○年近く昔、運命のあの日迄遡らなければならない。小学校からの同級生でもある古くからの友人に誘われて、何も分からないまま三好郡井川町の腕山(かいなやま)スキー場へ、くっついて行ったことから話が始まる。なお、この一年前にも声を掛けられたが、残念ながら行くことは叶わなかった。たまたま私が風呂場でけて肋骨を折り、自宅療養中の身であったからだ。そんな訳で彼とは一年遅れのスタートを切ったことになる。スキーに於ける最初の一年の差は以外と大きく、その後数年間、どう頑張っても追いつくことは出来なかった。

 さて、「生まれて初めてスキーを履いた感想は?」との質問に対して、二つの返事がある。まず最初に
「何たってこの年(注※)になってやっとスキーが出来る、そりゃ〜もう天にも昇るほど嬉しい、ア〜しあわせ…」
次の瞬間
「オイオイ!こんなに長くて重いもん、一体どうすりゃ〜いいんだ=コリャ〜まるで足かせじゃないか?
と悲痛な叫び。正直な話、これは一種の難行苦行、あるいは悪く言えば拷問に違いなかった。旧式の貸しスキーだったので余計、にっちもさっちもいかなかったのだろう。その日は転倒・転倒また転倒で、数mたりとも滑ることが出来なかったのを、今もって鮮明に記憶している。
(※当時、スキーは若者のスポーツと決められており、30過ぎてから始める者は珍しかった)
 

 スキーというもの、ちょっと練習すれば誰でもスイスイ滑れると思い込んでいた私にとっては、これは大いなる誤算でありショックであった。世の中、私生活面はもとより仕事面でも、未だ知らないこと数知れず。自分の無知さ加減にぶったまげ、恥をかくこともしばしば。ともあれ、ここであっさり諦めては余りにも根性がないではあ〜りませんか!それに子供の時分、かってのオリンピックアルペン競技三冠王、トニー・ザイラー(古い!)主演の映画「白銀は招くよ」(注※)を見て以来、ずっとスキーに憧れ続けていた。さらに友人とか職場の同僚にも、スキーを始めたことを自慢げに吹聴していたせいもあり、そう簡単に後にも引けなくなっていた。もう少し、せめて今シーズンだけでも続けてみようと気を取り直した。そこで早速、短めのスキーセット(勿論安物!)を購入、剣山(つるぎさん)スキー場で特訓が始まった。
(※この他に、私の見た限りでは「黒い稲妻」「白銀に躍る」がある。特に「白銀に躍る」では見事なアイス・スケーティングを披露していた)

 当時の剣山スキー場は、道中の困難もさることながら、雪不足にたたられ、コース中に切り株とか岩石が露出、加えて凹凸もひどく、かなり厳しい状況であった。折しも時を同じくして、この頃から暖冬が顕著になりだし、条件をさらに悪くしていた。コースを一回滑って降りてくるだけで汗をびっしょりかき、四百mにも満たない距離に何と!30分以上もかかったものだ。スキーとは、かくも大汗をかく、どえらいスポーツだと身にしみてわかった。そして結局ほとんど滑ることが出来ないまま、シーズン最後の仕上げとして、初の県外スキー場(琵琶湖方面)へ遠征することになる。

 そのスキー場では足手まといだから〜別れて行きま〜す(注一)と口ずさみ、連れとは別々に、一人でじっくり練習を重ねた。そうこうしている内に、スキーの基本であるボーゲンで、何とか曲がる・止まるが出来るようになってきた。この時やっとスキーの面白さを味わえ、私の明るいスキー人生への幕が開いたことになる。R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」(注二)の旋律が頭をよぎったのも、この瞬間であった。
(注一.サザンクロスの「足手まとい」は、自他共に認める私の十八番(おはこ)でありテーマソング)
(注二.映画「二○○一年宇宙の旅」に使われていたこの名曲は、以来私にとって重大な事が起こる度に、思い浮かび奏でる)
 

 以来、如何なる事情があろうとも毎年欠かすことなく、平均して三〜四回前後、多いときで五回程度、主に関西・中部・北陸・信州方面へ出掛けることになる。当初はまだ初心者でもあり、スキー場の規模にはこだわらなかった。もっぱら比較的マイナーでかつ温泉がある静かなスキー場を好んで選定。混雑する週末とか祭日は避け、大抵日曜日早朝出発、火曜日帰着の二泊三日とした。交通手段はマイカーを用いた。まだ大鳴門橋が開通していない時期であり、目的地まで丸一日を要したものである。大雪に見舞われ大渋滞に巻き込まれたり、吹雪の中暗闇でのチェーン装着とかスタックしたりの悪戦苦闘は数知れず。しかし、毎年だんだんと道路交通網も整備され、マイカーも一段とヴァージョンアップ。ディティールにこだわり紹介すると、当時としてはまだ珍しいフルタイム四駆にインタークーラーターボ付エンジンで武装、足下はスタッドレスタイヤでガッチリ固めフォグランプ装着、さらに過去の経験を踏まえて非常時用スコップ、雪かき、霜取りスプレー等スノードライブ用品一式を揃え、まるでラリーカー並に装備は充実。これにより以前のような苦労をいとわず楽々目的地到達、アクセス時間は大幅に短縮される。

 一方、宿は現地に到着してから決定。民宿からペンション、旅館、リゾートホテル迄いろんな所に泊まったが、いわゆるひとつの基本理念があった。それは多少料金が高くても比較的大きめで、しかもゲレンデに近い旅館・ホテルに泊まること。何故なら、ほぼ建物の規模に比例して風呂が立派で大きいし、食事もグッと良くなる。民宿は確かに安いかもしれないが、特別料理を頼んだりすると結果的に大差なくなる。それにあと永くても10年ぐらいしかスキーは出来ないだろうと思っていたので、多少の贅沢は許されると勝手に解釈していた。当時、本当に40才過ぎぐらいまでしかスキーは出来ないだろうと、マジに考えていた。今でこそ年配のスキーヤーは私を含めよく見掛けるが、その頃は皆無に等しかった。
 
 いきなり話は変わるが、北陸山中は、とある温泉ホテルでの出来事。カットはスナックの場面。片隅のテーブルにいた四〜五人のグループのリーダーらしき男が、我々二人をマジマジと見つめ「アンタァら、刑事さんですかい?」と訊いてきた。「まあ、そんなもんです」と答えると、やおら態度を軟化。ビールを注ぎ、ウィスキーをボトルごと持ってきたり、カラオケをどうぞといった具合で唖然としたことがある。今思えば、彼らは何かよからぬ犯罪に関わっていたのではないか?とも思える節があるのだが・・・その後スキー場に来て何度か警察関係者に間違われたことがあるが、どうしてだろうか?私達はそれほど眼光鋭くもないし、顔も大して渋いほうではない。どちらかというと容姿は地味。今もって不思議な話ではある。いずれにせよ、当時は警察に間違われても悪い気分はしなかった。が、今なら話は全く別。昨今の呆れ果てるまでの不祥事続きの警察に間違われることは、これはもう腹が立つやら恥ずかしいやら情けないやら。

 余談であるが、かれこれ10年程前にウチのカミさんが、何を思ったのか突然「私をスキーに連れてって〜」と言い出した。そこで仕方なく家族を引き連れ、大山方面へ出掛けたものだ。ところが運悪くこの時に限って、山陰地方は稀にみる大荒れの天候で大豪雪、どこが道路か区別が付かないほどの積雪を記録していた。連日連夜ブリザードが吹き荒れ、スキーどころではなかった。これに相当懲りたのか、ウチのカミさんに子供達、以来二度とスキーのことを口にすることはなかった。思わぬ出来事は、私にとって大いにラッキー?であった(笑)。

 物事万事、最初が肝心。ことスキーに関しては、特に当てはまると言えよう。スキーを続けるか否かは、最初の体験が全てものをいう。であるから記念すべきスキーデビューを飾ってもらうために、そして長く続けるためにも、次の一般的な注意点を守って欲しい。
 @天候の良い日を選ぶ(二月以降天候が安定すると言われるが保証はしない)
 A緩やかで広大なスロープのあるスキー場を選ぶ
 B親切に教えてくれるボランティア精神の旺盛な人と一緒に行く(重要!)
 C素直にスキースクールに入学
 Dウェア、用具を一式揃える(もったいないので、そう簡単にやめられない)
 さて、話を元に戻すとしてアフタースキーの温泉、その後の雪見酒の宴は、たまらなく心地よいものである。これを一度経験すると酒好きにはもう堪えられず病みつきになる。まさに至福の時(多少大袈裟かも?)であり、気分はそのまんま「本部長」(このギャグは昨年の新潟警察不祥事事件を思い出してほしい)。これがスキーの楽しみのひとつであり、長く続けられる要因のひとつであったことは、疑う余地もない。この際だから、ちなみに私の飲酒に関する「至福の時ベスト5」を挙げさせてもらうとすれば次のようになる。
 @アフタースキーの温泉と宴会(前述)
 A山頂を極めてのちょっと一杯
 B見知らぬ国々で飲む現地の酒
 C気の合った仲間と釣り(舟釣)をしながらの一杯
 D宝塚にて生ビールを頂き、その後の大劇場最前列での居眠り
 注Aここ2〜3年、不況の嵐に翻弄され日本アルプス方面はトンとご無沙汰。
   さらに県外進学の娘が財政を圧迫。加えて上の娘が突然嫁に行ったので、もう金はありませぬ!もう何も買わない、どこも行かない、でもスキーは別で〜す。
  Bも同様の理由で、外国旅行は固く御法度。
  C主に4月〜10月の間、友人の船で月一回程度実施。時たま学校の恩師を招いて数学ならぬ釣りの講義を受けている。「君たち、なにやってんだ!」と懐かしの檄が飛ぶ。
  Dウチのカミさんが大の宝塚ファンで、しばしばお供をした。言うまでもなく私の行動は大いにヒンシュクをかっている。ここだけの話、感激の余り涙ぐむことも。私は顔に似合わず、以外と涙もろいのである。ここ数年、S席のチケットはほとんど入手不可能。現在、カミさんは宝塚ビデオで我慢の日々。
ついでながら「イヤ〜なスキーワースト5」もいってみよう。便宜上一応順位をつけているが、どれもご免を被りたい。
 @大雪かつ大寒波襲来時のスキー
 A雨の日のスキー
 B濃霧の時のスキー
 C暑い日のスキー
 D二日酔い、風邪、腰痛時のスキー
 注@南国育ちで大して苦労もしていない私にとって、これほど苦痛を伴うスキーはない。なんでこんな天罰を受けなければならないのか自問自答。哀れなり、顔面は凍え引きつり、ツララが垂れ下がることもままある。
  A雨のスキーはちっともロマンチックじゃない。ヤル気は失せ意気消沈。
  Bひどいときは一寸先も見えない。それどころか、上下・左右の判断もつかない程感覚が麻痺。あたかも宙に浮いているよう。これはホントの話。
  C天気の良いのはいいが、暑いのはいただけない。雪焼けも気になることだし。さらに表面の雪が溶け、夜中に凍り付き、翌朝は恐怖のアイスバーン。
  D長いことスキーをしていると、必ずしも体調がいい時ばかりとは限らない。何日も前から約束したり予約もしているので、風邪ごときでやめる訳にはいかない。大抵スキーから帰る頃には直っている。腰痛は少々厄介。サポーターを巻き加減して滑るしか術はない。この際、急斜面はこらえて(許して)やろう。
 
 このようにせっせとスキー場通いを、かれこれ十数年続けただろうか。時代の移り変わりと共に、いつしかメンバーも私の元職場(注一)の同僚達に変わってきた。そして阪神大震災に因る交通網の寸断を契機として、大阪発着のツアー(注二)が主となり、信越・東北・北海道エリアへと一気に足が延びてきた。それにつれ、スキー場もメジャーな大規模スキー場ばかりとなった。ゴンドラは複数基、トリプルにクワッドの高速リフトが縦横に効率よく配置、ICカードによるフリーゲートシステムは当たり前、待ち時間は週末でもゼロに近い。四〜五日滞在しても充分に滑り応えがあり、飽きることはない。まこと人間とは贅沢なもので、こうなると中規模クラスのスキー場は、もはやお呼びでない。
(注一.バブル末期に某市役所を退職、現在建築設備設計事務所を自営。正味の話、経営は青息吐息。ホント誰か景気のいい話はないですか?)
(注二.ツアーといっても個人型ツアーなので、往復の便に指定があるだけ。出発日とか、予算にも依るが、滞在日数及び利用ホテルは自由に選べる)

 当初の方式は夜行バスによるツアーであった。ところが、バスは大雪等で大幅に運行時間が狂うし、車中ほとんど眠ることができない。三列シートのデラックスバスでも結構窮屈なものである。そこでJRシュプール号の寝台列車を利用することになった。列車の走行音が案外耳につき、熟睡とはいかないまでも、ゆっくり体を休められる。しかしここ二〜三年、飛行機の方がグッとお得になってきた。信じられないような格安料金で、東北・北海道方面へ行くことが出来る。ウィークデイプランにすればさらに安くなる。飛行機を利用することで、滞在日数は従来の二夜行二泊から三泊四日とか四泊五日(注※)に増えてきた。それと共に残念ながら、不況の影響もあって回数はシーズン平均二回に減少。航空運賃自由化に伴い、今後さらなる低価格化に期待がかかる。
(※不思議なことに一〜二泊増えても料金に大した差はない)

 ツアーとなったことでスキー用具一式と手荷物を持って行かなければならなくなった。スキーツアーは特に大荷物となり、バス・地下鉄移動には大いに難儀させられる。スキー宅急便を利用すれば問題は即解決となるが、そんな余分な金があれば酒に回す方がまだましとばかり、メンバーは皆自分で運んでいる(ショボい!)。私も彼らに倣って一式持参しているが、正直な話、手提げカバン一つで行きたいものだ。それにしても何回か行っている間に、いろいろ工夫をこらし知恵が湧いてくるものである。当初はキャスター付スキーバッグを使用していたが、階段の上り下りとか積雪時の移動に難があった。今では3ウェイバッグを利用、バックパックのごとく背負っている。スキー板の方は三年前にカービングスキー(注※)に買い替えたこともあり、随分と持ち運びが楽になった。アンダーウェア類も従来の綿素材のものから、透湿速乾性のポリエステル・フリース等の新素材となり、日にち分持って行かなくても各一〜二着あれば充分事足りる。勿論登山と同様に、荷物は可能な限りコンパクトになるよう努めている。
(※丈が短く回転に適している。以前のスキー板は185p、現在160p)

 このメンバーが揃いも揃って皆大酒飲みで、泣く子もあきれて黙るほど。巷では人呼んで呑んべえオッサンズ御一行様=@例えば、夕方の高速船に乗る前に私の事務所で先ずビールで乾杯、船内では車座になって洋酒をチビリ。大阪ナンバの居酒屋でさらに一杯引っかけ、夜行列車ではささやかなパーティーで総仕上げ。大阪までの高速バスを利用する時は、徳島駅前に早めに集合、焼き鳥屋か焼き肉やにて一杯といった具合だ。常にスキットルを携帯し、スキー場で休憩の度ごとに栓を開け、コケるたびにまたまた一杯。昼食時は生ビールをグビグビグ〜イ。無論夜は大ブレイク!酒が足りなければ買い出しに走る。その他飲み方のパターンは色々取り揃えているが、くどいので以下省略。要するにその場の状況に応じ、臨機応変に対応している。無論、人様に迷惑を掛けないよう配慮することを、努々忘れてはならない。さすがに初日は二日酔い気味で滑らなければならないが、二日目以降は不思議と酔いは残らない。酒とは体を使って程良い運動をしてから頂くものだと実感。飛行機利用の場合だと、道中で飲む機会が少なくなってくるのでやや寂しい限り。
 
 私の場合に限ってのことだが、酒が入るとやたら行動が大胆になる。なんだか酔っ払ったような気分になり、千鳥足ながらも今まで尻込みしていたコブ斜面(注一)目指し、気合いっぱぁ〜つ突撃!エイヤァー!コノヤロ〜>と突っ込んでいく。スピードもグィーンとアップ、滑って滑って滑りまくる。こうすることでアルコールをドンドン発散させ、来るべく夜の宴会に備えるのだ。ビールを飲むと誰しも、じわじわっと尿意が襲ってくる。気温の低いスキー場ではなおさらのこと。直ちにトイレに駆け込めるゲレンデを選ぶことを、心掛けなければならない。つい先ほど済ませたばかりなのに、リフト一本乗る間に早くもミーンミン(注二)と、催すことも。三〜四回通えばやっと落ち着いてくる。
(注一.急斜面をスキーヤーが滑ることによって作られるデコボコの雪面)
(注二.せっぱつまってトイレが近いことを告げるサインをこう表現したい)

 前々から思っていたことだが、スキーとは何とも変わったスポーツと言えないだろうか。つまり他のスポーツと異なり、朝の出撃から夕方の帰還まで一日中みっちりやる。しかも滞在期間中、あたかも体育部の合宿のごとく、毎日ガンガン滑るのだ。言うまでもなく、仕事ならここまで真面目にしないし出来る筈もありまぁシェ〜ん。ガッツのある輩はナイター(早朝営業もある)までして滑り倒す。これほど長時間・長期間にわたってやるスポーツは、身近なところでは登山しか思い付かないが、如何なものか?さらにもう一つ、上へ登ってまた滑り降りるだけという、極めて単調な繰り返しの連続である。これはスキーを体験したことのない人には理解し難いかも知れないが、そのプロセスが楽しいのである。同じスロープは二つとして存在しないのだから。リフトとかゴンドラに乗っている間にしばしの休憩を取り、降りると同時に脱兎の如く、一目散に滑り降りる。特に我々オジサン達はケチなので、リフト券の元を取ろうと必死に頑張り続けているのだ。

 スキーもゴルフ(注※)も同様であろうが、様々な各地のコースを転戦するのが面白い。どんなに変化に富んだロングコースでも数回滑れば飽きてくる。とは言え自然相手のスポーツなので、同じコースでも一日のうちで天候、雪質により絶えず微妙に変化する。概して午前中が滑りやすい。朝一番、圧雪された雪面にうっすらと積もった絶好のコンディションの中,広大なゲレンデをシュプールを描き雪煙を上げて颯爽と滑る時ほど、気分の良いものはない。「ク〜っ=生きててよかった>」と感じる瞬間でもある。大勢滑った午後からは若干荒れてきて、思わぬ所で足を取られ転倒となる。逆に水分を含んだ重い雪の場合は、午後からがベターと言える。
(※私は生まれてこのかた、ゴルフというものをやったことがない。時間的にも金銭的にもそこまでとても手が回らないのが現状)
 
 唐突であるが昨年の一月末、山形蔵王スキー場での二日目の夜、突然我が愛犬であるアイク(IQと書く)が、急死したとの訃報が舞い込んだ。数週間前から体調を崩し、かかりつけの獣医に診てもらっていたが、よもや死ぬとは思いもよらなかった。ゴールデン・レトリーバーのアイク(♂)は、賢い(ただし上にズルがつく)犬で、近所でも評判の愛想のよい人気者だった。通りすがりの学生さんとか散歩中の人達がよく相手をし、時には車を止めてまでアイクを可愛がっていた。近所の幼い子供達も時折見物に訪れ、さながら動物園のような賑わいをみせていた。また元祖オフィス犬(事務所で放し飼い)でもあり、私の足元でいつもゴロゴロ寝転がっていた。他人様が大好きで、客人が来ると尻尾はおろか腰を振って歓待。反面、御主人たる私にはワン!と吼えてわがままのし放題。服、スリッパ、座布団、雑誌とかの私物を失敬するなどの悪行三昧に、ムカついたことも。しかし不思議なことに、パソコンのキーを前足で押したりする以外には、仕事関係の機器類、書類等には、ほとんど手(口)を出さなかった。

《ありし日のアイクさん》


















 ところで何故こんな話を持ち出したかというと、愛するものが亡くなるのは非常に辛く悲しい。私もかなり落ち込みながらも翌朝のスキーに臨み、口数も少なくションボリとゴンドラに乗り込んだ。ところがいったん滑り始めると、いつの間にかリセットがかかり、アイクのことはきれいサッパリ頭から消去。リフトに乗ると再び思い出すのだが、滑り出すとまたまたリセット。こんな事を繰り返しているうちに、申し訳ないが、すっかりアイクのことを忘れ、いつものようにスキーを楽しんでいた。今の世の中、全ての事を忘れ熱中出来るものは少ない。スキーはその数少ないもの(注※)のひとつであると言いたい。アイクさんの冥福を祈る(享年八才十ヶ月)。
(※遙か遠く家を離れ、真っ白な銀世界に立つ。もうこれだけで既に非日常的)
 
 「えっ!なに?肝心のスキーの腕前は、一体どれだけ上達したかって?う〜ん、そうねえ、さぁ〜?」と唸るしかない。私は元来、人に教えるのも嫌いだが、教えられるのもまた嫌いな損な性分なので、今までスキースクールへ入学したことがない。テレビ・ビデオとか人の滑りを盗み見て、我流でやってきた。物事には段階というものがあるのだろうが,その辺の基本を余りにもおろそかにしていた(反省!)。それ故フォームはバッチリとは程遠い。(本人はスパスパッとカッコ良く決めている積もりみたいだが)

 面倒なことは抜きにして、要はスキーを楽しめればそれはそれでよし!それはさておき、当初より訪れたスキー場にある全てのリフトを乗り継ぎ、全ての斜面を滑り降りること、そして如何なる事態に遭遇しても、なるべく転けることなく、しかも安全に滑り降りることをモットーとし、飽くなき挑戦を続けてきた。今では40度の“壁”と称されるコブ斜面でも、そつなくクールに滑り降りることが出来る…ハズである…

 扱いやすいカービングスキーに替えてから、このところさらに調子が上がってきたように思う。スキーを始めて四〜五年の間は、毎回必ずド派手な大転倒をやらかしたものだ。ある時は体のどこかに打ち身・捻挫の負傷を負い、そしてまたある時は腰を強打し、泣きながら帰ったことも何度か。湿布薬に膏薬は欠かせないアイテムとして常備していた。これまで大きな怪我も事故もなくやってこられたのは、これひとえに運がよかったと言う他ない。やはり日頃の精進の賜物と考えて差し支えなかろう。あの頃から比べれば今では無駄な力を使わず、転倒もほとんどせず、軽々とあらゆる斜面を自在にこなすことが出来るようになった、と思うのは独りよがりであろうか?今後の課題は体力との勝負になりそう…(^^;)
 
 以上、武勇伝、苦労話、自慢話それに私事など各種織りまぜ、スキーにまつわるエピソードをダイジェスト版で進めてきた。少々熱く語りすぎたようだが、まだまだ話は尽きない。長話は嫌われそうだし、時間(紙面)の都合もあるし、ひとまずここらで今日の話を終えるとしよう。今まで述べてきたことは、必ずしも正しいとは限らないが、ホラを吹いていないことを断っておかねばならない。これらはあくまでも私なりのスキーに対する熱き思いであり、一種の人生の縮図ともとれよう。ともあれ、これを機に少しでもスキー愛好者が増えれば幸いである。最近の動向として、若いときにスキーをしたことのある人が再び何十年ぶりかで始め、ハマっていると聞くが好ましい傾向である。最後に「スキーは一体何歳ぐらいまで出来るのか?」という疑問に対して、60才ぐらいならバリバリで現役、滑り方にも依るが元気であれば70才でも十分に楽しめると考えている。いろいろ制約はあろうけれども、たった一度きりの人生、皆さん、好きなことをして大いにエンジョイしようではありませんか!!v(^_^);
 
 なお、スキーを始めてから秘かに想い続けている、スイス・フランスへのヨーロッパスキーツアーは、未だ実現の兆しはみられない・・・・・
 
 
(2000年10月記す)



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