(総文字数 約53,400文字,第一部 約39,600文字)

運命の十字路

〜ある兵士の回想録〜

(満州・華中・朝鮮戦線)




第一部 入隊・満州戦線


《第一回召集 昭和13年1月10日〜昭和17年2月10日》

第一章 入隊
 
1 徴兵検査
参考:徴兵検査合格の種別
2 入隊
参考:日本陸軍の編成
3 猛訓練
4 行軍訓練
5 満州へ
6 船上にて

第二章 満州戦線

1 満州到着
2 満州鉄道の旅
3 新密山到着
4 廟嶺駐屯
5 廟嶺任務
6 廟嶺軍隊生活
7 再び新密山にて
8 新任地へ
9 小石頭河子駐屯
10 白金懐炉盗難事件
11 匪賊討伐隊
12 山中彷徨
13 渡河作戦
14 生還
15 湖南営駐屯
16 ノモンハン戦線
17 撤収そして湖南営へ




第二部 華中・朝鮮戦線


第三章 華中戦線
 
1 中国縦断、揚子江へ
2 華中戦線かく戦えり
3 マル秘の話
4 入院
5 中国一人旅
6 上海勤務
7 内地帰還


第四章 朝鮮戦線

《第2回召集 昭和20年4月16日〜昭和20年11月1日》

1 臨時召集
2 京城へ
3 朝鮮駐屯
4 敗戦
5 復員

参考:年号早見表




はしがき
 
 この自伝的戦争体験手記は、父の死後(平成八年六月二七日没)しばらく経ってから、父の残した持ち物整理をしていた時、偶然見つけたものです。何冊かのノートに書き記していたメモを年代順にまとめ、加筆・再編集したのが本手記です。一体いつ頃から書き始めたのか、またいつ書き留めていたのか、家族の者でさえ誰も気が付きませんでした。恐らく昼間か夜中にでも、忘れかけていた記憶の糸を辿り辿って、ぼちぼち書き綴っていったのではないかと思われます。そんな訳で文中に出てくる人名、地名、日付等の間違い、あるいは思い違いも多々あろうかと思われます。特に地名に関しては、その後、新中国の誕生に伴い、いくつかの省あるいは都市の名称が変更されているようです。判っている地名については現在の呼び名を書き加えてあります。本文の内容も含めどこまで正確なのか知る由もありませんが、本人の意向に添ってほぼそのままの文章で書き記してあります。さらに、文中には言葉の言い回しとか呼び方、固有名詞等、現在ではそぐわない部分もかなりあるか思われます。また、細部に至るまでかなり克明に記録している部分もある反面、大ざっぱな表現の部分もあります。後半の華中戦線以降、特に朝鮮戦線についてはそれが目立つので、この手記は未完成であったのか?と思われます。とにかく今となってはその真意を確かめる術もありません。どうか以上の点をご理解ご考慮の上、ご一読をお願い致します。





【 本 編 】


第一部 入隊・満州戦線

 
 兵役の義務、国民皆兵で兵隊になるのが一家の名誉とされていた時代のことである。徴兵検査(又は壮丁検査とも言われる。壮丁とは成年になった男子のこと)は、男子にとって絶対に受けなければならない大行事であった。時あたかも昭和一二年(1937年)七月七日、北支事変が勃発した。日本の第八中隊が北京郊外の永定河にかかる古い石橋、廬溝橋(マルコ・ポーロ橋とも呼ばれている)河岸で夜間演習をしていた。この時、支那正規軍との間で発砲事件が起こった。その真偽はいまもって明らかでないが、これが世に言う 廬溝橋事件 であり、全面的な日中戦争の発端となった。以降、日本から中国へ続々と大軍が派遣されることとなった。これはそんな時代にたまたま出くわし荒波に翻弄された,一兵士の真実に基づく話である。
 
 
 
第一章 入隊
 
 
《第1回召集 昭和13年1月10日〜昭和17年2月10日》
 
 
 
1 徴兵検査
 
 昭和十二年六月十五日、本籍地の大阪市港区役所にて徴兵検査を受けた。集まった壮丁達は緊張そのものの真剣な態度である。憲兵に看視されながら素っ裸で一つ一つ厳重に身体の各部を検査される。視力検査の時、何がどう間違ったのか、俺は別の暗室に連れて行かれ、徹底した検査を受けた。それが終わると最後に、大威張りの大佐殿の前に行って判定を宣告され、検査はようやくそれで終わりとなる。
その連隊区司令官である大佐殿は、大声で言った。
「よぉ〜し!甲種合格だぁ!」
卓上の検査結果表に大きな印判をドッスン≠ニ押した。大佐殿は自慢の髭をナデナデ、終始ニコニコご機嫌うるわしく
「希望の兵役はあるか?」
と聞いてくれた。俺は待ってました!とばかり単刀直入に
「騎兵を希望します!」
「騎兵はだめだ」
「では軽騎兵をお願いします。馬に乗りたいであります!」
「君は股寸が短いので馬は無理だが、野砲兵ならよかろう。野砲でも馬に乗れるぞ」
 俺はこの親切な大佐殿に大いに感激した。
『だが待てよ、野砲兵ならいっそのこと歩兵がまだましだな・・』
と考え直した俺は、きっぱり言った。
「それでは歩兵の本科をお願いします」
大佐殿は一瞬意外な顔つきをしたが、やがてニヤッと笑みを浮かべ
「ウ〜ム・・よかろう・・・よしっ!歩兵だ!」
 この一言で俺の運命は決まった。後になって自分の先見の明の無い、ほんの思いつきで軽々しく選んだ兵科で、骨の髄までとことん思い知らされることになろうとは、神ならぬ身に知る由もなかった。あの時の大佐殿の謎めいた笑みの意味が判ったのは、入隊後しばらく経ってからのことであった。その時は感謝の意を満身に込め、意気揚々として大佐殿に最敬礼したのであった。
 
参考:徴兵検査合格の種別
甲 種:
  現役の兵員は定員があるので、甲種合格者が定員より多いときは、抽選によって決められる。外れた者は、第一補充兵役に充当される。
第一乙種:
  第一補充兵役(戦時下等の場合には補充兵として召集される)
第二乙種:
  第二補充兵役(第一補充兵役に準ずる)
丙 種:
  国民兵役(一応、兵役に服する義務がある)
丁 種:
  身体障害者等で国民の兵役に服する義務は免除される。
 
2 入隊
 
 晴れの入営日は明けて昭和十三年の一月十日に決定した。勿論、歩兵だから第四師団の歩兵第八連隊であるが、通知書には歩兵第八連隊留守隊とある。つまり、歩兵第八連隊の本隊は、軍旗と共に満州に派遣されているので、留守隊は軍旗を持っていない歩兵第八連隊ということになる。
 遂にその日がやって来た。前夜から眠れぬままに、まだ寒天に星がきらめき凍りつく厳寒の早朝に飛び起きた。
『俺も今日から兵隊さんだ。ぼやぼやしては居れん。よし!やるぞ〜>
と悲壮の決意で奮い立ち、白み始めた東天に向かって大きく両手を広げ深呼吸した。
 やがて俺の入営を見送ってくれる親戚・知人や町内の人たちが、自宅裏の空き地に集まってきた。暖をとってもらうための焚き火が、勢いよく燃やされている。まだ空は明けきっていないが、辺りは焚き火の炎でほんのり明るい。
 俺は皆の前で挨拶をしなければならない。この日のために以前より練習に練習を重ねていたので、多少の自信はあった積もりだ。急ごしらえの壇上に俺が立つと、一同シーンと静まりかえった。一瞬、ピーンとした空気が張りつめた。余りの緊張のせいで直ぐに言葉が出てこない。それでも無我夢中で大きな声で元気いっぱいに、出征挨拶を無事に述べ終えた。一生一世の大言壮語としてこのおざなりの挨拶言葉は、今でも思い出す度に気恥ずかしくて、くすぐったく感じている。
「無事入隊の暁には粉骨砕身軍務に精励し、光輝ある皇国三千年の歴史の為、また天皇陛下の御為に奮闘努力致す覚悟でありま〜す>
 一死報国の決意が全身に満ち溢れ、正に血湧き肉躍る感激の一瞬でもあった。その時点では、無論知る由もないが、軍務の厳しさなどこれっぽっちも判らず、未知の軍隊生活に一種の憧れさえ感じていた。これは俺に限らず当時の若者は、みんなそう思っていた。
 万歳の歓呼の声援に送られて、天王寺第四青年団主催の壮行会場でもあり入営者集合場所でもある、氏神さんの久保神社に勇躍肩で颯爽と風を切りながら向かったのである。
 境内は早くも大勢の見送り人でごった返している。青年学校同期生である歩兵第三十七連隊の佐竹、津波、上野、それに野砲兵第四連隊の小野、その他顔の知らない入営者も大勢来ている。やがて一同拝殿に上り、宮司の祈願を受ける。おごそかな神事が済んで青年団員有志と共に、歩八組と歩三十七組は一団となり馬場町目指し、大地も凍る夜明けの市中を行進して行った。
 歩八の営庭は入営者と見送り人で溢れるばかりである。その恰好たるや星のない軍服姿から紋付きの和服、背広姿、俺のような青年団服等服装はいろいろだが、丸刈りの坊主頭だけは皆一様に同じである。
 点呼が済み、それぞれ自分の所属する中隊に別れ、准尉に引率されて第五中隊の営舎に案内された。俺は第三班に編成されている。
 既に受け入れ態勢は整えられており、自分の寝台の上には官給品がちゃんと置かれている。しかし、これは単に員数のみ合わせてあるだけで、自分の体に合うかどうかは着てみないと判らない、ということである。先ず私服から官給品に着替えなければならない。上等兵や古参兵(古兵)はなかなか親切に手伝ってくれる。身体に服を合わせるのではなく、無理矢理服に身体を合わせる、と言った方が判りやすい。一着だけ新品が入っているが、他の物は大正製の何代も着古した、つぎはぎだらけのボロ着ばかりである。
 自分の物が決まれば早速自分の名前を註記せよ、と命令される。註記方法は一定の様式に従って書き込まなければならない。一発に全官給品に註記するのはそう容易ではない。ましてや皆、生まれて初めてやることだからそれはもうてんやわんやで、班内は足の踏み場もない程ごった返していた。
 そうこうしているうちに昼食の時間となった。古兵殿の世話で配膳され初年兵は何もせず、ただ食卓につくだけでよい。今日の昼食は初年兵入隊のお祝いとして、お頭付の鯛と赤飯である。班の先任上等兵から
「初年兵は大事なお客様である。よって本日の内務班の仕事は一切合切古兵がやる。お前達は古兵のすることをよ〜く見ておけ。その内にイヤというほど締め上げてくれるから、今日のところは安心して何もせんでよろしい。判らないことが有れば遠慮せず何でも古兵に聞け!」
星三つの上等兵殿がすごく偉い人に思え、星三つに憧れと畏敬の念を抱き、大したものだと感心した。
 午後は中隊幹部の官姓名を覚えさされる。連隊内の建物施設の見学、医務室での身体検査、私物品の整理等ごじゃごじゃした雑務に追いまくられた。入隊初日なのにお客様は休む暇もなく、ただ慌ただしくも長い一日が過ぎ去った。
 第三班の内務班長は軍曹殿であるが、病気とかでとうとう最後まで内務班に姿を見せなかった。班付下士官は長田伍長殿で、班長代理として内務班のことだけでなく、初年兵の教育、訓練にあたった。長田伍長は召集の伍長で、金筋に星一つの肩章がまぶしく、伍長殿がまるで後光のさす神様仏様のように見えた。
 日夕(にっせき)点呼も過ぎて九時きっかり、寒夜の静けさを破って響き渡る消灯ラッパの音
『新兵さんは可哀想だね〜また寝て泣くのかね〜』
班内の電灯が一斉に消されると、窓から寒々とした月明かりが差し込む。物音ひとつしない静寂な夜。寝台の毛布にくるまっていると、俺は自然に涙が溢れ出てきた。寂しくて泣いているのではない。辛く悲しくて泣くのでもない。我ながら何故涙が出てくるのか、さっぱり判らない。はっきりした感情もないのに自然に涙がこぼれる。まこと摩訶不思議な現象である。おそらく他の初年兵も俺と同じように、毛布の中でボロボロと涙を流していたことだろうと思われる。
 
参考:日本陸軍の編成
名称    兵 員 数      構 成(そ の 他)
分隊 13人  
小隊 約50〜60人  
中隊 約200人  
大隊 約1,000人 四個中隊
連隊 約3,500人 三個大隊(実際の戦闘に当たる基本単位)
旅団 約7,000人 二個連隊
師団 1.5万〜2.5万人 四個連隊(又は二個旅団)
5万人以上 三個〜四個師団
方面軍 10万人〜100万人 二個軍以上(軍隊の単位としては最大)
 ※この他、独立混成旅団(連隊と師団の中間に位置する)、支隊(目的に応じて編成される)が臨時に作られた。
 
3 猛訓練
 
 翌朝、勢いよく鳴り響く起床ラッパで眼が覚めた。
『起きろよ起きよ!皆起きよ!起きなきゃ班長さんに叱られる〜』
日朝点呼場に直ちに整列しなければならない。皆、大慌てで必死に服を着る。軍隊はご存じのように早めし、早ぐそ、早がけ≠フ鉄則がある。中隊長以下下士官に至るまで、中隊幹部も含め皆一同に召集である。
 第五中隊の営舎に二個中隊分の初年兵が入居している。我々は満州に派遣されている本家の歩八連隊第九中隊要員である。そして第十中隊要員の初年兵と同居している訳である。中隊長は金田大尉、中隊付将校もいるけれど滅多に顔を合わすことはない。
 内務班の第一班は軽機(※注1)班で宮内軍曹、第二及び第三班は小銃班、第四班は擲弾(てきだん)筒(※注2)班である。
【※注1:軽機関銃の略】
【※注2:歩兵用携帯火器のひとつ。手榴弾よりやや威力が大きい小型爆弾を発射する。】
 翌日から営庭で不動の姿勢から始まって徒手各個教練が始まった。初年兵係の教官は西川准尉、先任助教官は宮内軍曹である。この二名だけが現役で、はるばる満州の部隊から我々初年兵受け取りのため、この留守部隊に出向して来たのである。
 小銃なしの教練が二〜三日行われた後、いよいよ三八式歩兵銃の拝領式である。金田中隊長の前に一人ずつ進み出て、うやうやしく銃を手渡してくれる。最後に中隊長は訓示として、
「お前達が今拝領した三八式歩兵銃は、恐れ多くも天皇陛下から戴いたものであ〜る。お前達が軍隊に居る限り、この銃はお前達から片時も離れず、一心同体である。常に手入れを怠らず、我が身以上に大切に取り扱わなければならぬ」
 たとえ自身が傷ついても、決して銃に傷を付けてはならぬ。つまり、命よりも銃が大切だということだ。歩兵の唯一の兵器である歩兵銃が手渡されてから、兵隊として本格的な教練が連日行われた。執銃各個教練が済めば、次は戦闘各個訓練が始まる。何が何でも俺は上等兵に強く憧れていたので、内務班でも教練でも一生懸命元気いっぱい頑張った。
 入営前に軍隊経験者からよく
「初年兵は最初の三ヶ月間、すなわち一期の検閲までに上等兵候補者、甲班とそれ以外の者、乙班に分かれる。だからこの期間は目一杯気合いを入れて頑張らねば、とても上等兵にはなれないぞ!」
と教えられていたので人一倍積極的に行動した。が、他の者もまた同様によく頑張っていた。それどころか俺以上に張り切っている奴も大勢おり、その意欲、執念はすさまじかった。みんな負けじ魂を大いに発揮して奮闘していたのだ。
 ある日週番下士官から、自動車運転免許証を持っている者は届出よ、とお達しがあった。俺はこれは自動車兵の採用かもしれん知れんと思って、今宮職工学校の自動車専修課程修了証を下士官室へ持っていった。ところが第一班の宮内軍曹にいきなり大声でどやされ、散々な目に遭わされた。どうして怒ったのかさっぱり訳が判らずじまいで、ただ単に怒られに行ったようなものである。軍隊は気むずかしい所だなあと思った。俺の腹は
『あわよくば自動車兵になれるかも知れない。自動車兵なら楽だろう』
との甘い、いとも短絡的な自分勝手な考えであったのも確かだ。
 教練の合間に各種の予防接種を、医務室で受けさされる。血液型の検査など一通り済んで、次は血沈検査である。順番に並んで採血されるのを待つ。俺は血に弱いのか、前の者の静脈の血がガラス管に抜き取られるのを見ていると、ひどい恐怖感に襲われた。やがて遂に自分の番になった。心配で心配で胸がドキドキして、そして気が遠くなり失神して倒れ込んでしまった。
 長田班長の呼ぶ声で眼が覚めた。心配そうにのぞき込んでいる班長の顔が大きく目の前に見える。咄嗟に意識が戻り
『あっしまった!班長さんに叱られる!』
と思い、咄嗟に飛び起きた。しかし、長田班長は予想に反してニコニコしている。怒る気配は一向にない。大分時間が経っていたに違いない。何故なら医務室には誰一人としておらず、がらんどうである。全く狐に包まれたようにキョトンとしていると、班長は言われた。
「今から射撃訓練に行くから直ちに執銃帯創巻脚半して来い!」
 班長はずっと俺を待っていてくれたのだ。二人で射撃場に向け走った。長田伍長殿は機嫌が良く何も言わない。俺は終始恐れ入って小さくなっていた。この時以来、長田伍長はなんていい人だろうと思い、感謝すると共に忠誠を心に誓った。
 なお後で聞いた話では、注射針を腕にチクリと刺された途端、俺は卒倒したらしい。さらに付け足すならば、血液は一滴も抜き取っていないとのことであった。全く恥ずかしくて面目なく、穴があったら入りたい心境であった。
 この親切な長田伍長とは間もなく別れる時が来た。第一班の軽機関銃班と編制替えされたのである。俺と森田初年兵の二名だけである。古兵から
「軽機班は上等兵候補者が多い優秀班だからしっかり頑張れよ!」
と励まされた。ひょっとしたら俺は認められたのかも知れないと思い、内心得意満面であった。しかし、一緒に選ばれた森田初年兵は、どうひいき目に見ても優秀だとはとても思えない。反面、体良く追い出されたのではなかろうか?とも思い、何だか割り切れない複雑な気持ちになった。
 第一班の班長は現役バリバリ、闘志満々、張り切り屋で名の知れた宮内軍曹である。その教練はことの外厳しく、徹底して絞られた。軽機の基本から戦闘各個教練。ちょっとでも気に入らなければ、手の持っている棒でゴツンと叩かれる。軽機は旧式の十一年式装填架付、重さは約八キロ、しょっちゅう故障する代物である。
 連隊から練兵場までの駆け足に始まり、広い練兵場での早駆けと続く。今にも心臓が飛び出し破裂しそうになるまで、トコトンやらされた.内務班の中でも飛び抜けて訓練は厳しかった。上にもうひとつ重が付く、言葉では言い表せない超過激な重労働であった。“すべては苦しみ”と説かれた、お釈迦さんの説法がそのまま当てはまる難行苦行が日々続いた。
 さすが第一班の連中は体力があり優秀な者が多かった。他の班に負けるな!と先任上等兵から一等兵の古兵全員が大張り切りで、よってたかって初年兵を締め上げるものだから、これはもうたまったものでない。さらに軽機と小銃の両方持参しているので重いことこの上なし。加えて兵器の手入れにも余分に気を遣わなければならない。
 
4 行軍訓練
 
 三月初旬、いよいよ二泊三日の行軍訓練が始まった。古兵から
「これに落伍したら絶対に上等兵にはなれんぞ。ひとつの試験みたいなものだ。頑張らなあかんぞ! 」
と激励されて意気揚々と連隊を出発した。
 俺が二番(射手)で出口初年兵が三番(弾薬手)のコンビである。道中、軽機を交代で担ぎ、平野から加美、藤井寺を通過し、第一日目の宿泊地である道明寺に着いたのは夕刻近くになっていた。
 俺と出口は割り当てられた農家に泊めてもらった。この家は夫婦と娘二人の4人家族で、おやじは開口一番
「うちは海軍ばかりで陸軍は私だけです」
と言った言葉を、今でも何故かはっきり覚えている。出口初年兵は淡路島出身の田舎っぺ〜で、人との気の利いた対話はさっぱり駄目だ。そこで家族との応対は主として俺が受け持ってしなければならなかった。
 一夜の宿を借り、翌朝別れを惜しみつつ出立である。娘さんは大阪方面に勤めているとかで既に出勤していた。
 二日目は葛城の山並みを越え奈良県の王寺に出て、今夜の宿泊地である郡山に向かう。二日目ともなると皆大分、元気がなくなってきた。出口は軽機の交代をほとんどやらなくなってきた。その分だけ余計、俺に負担が掛かってくる。それでも何とか郡山に到着した。
 ここで割り当てられた宿は、株屋(現在の証券取引業者のようなもの)の商売人の家であった。有難いことに山盛りの饅頭と鶏肉のすき焼きをご馳走してくれた。さらに裏手に女郎屋があるのでこっそり行ってみないか?と誘われたが、俺達はまだ初年兵の身分だからと丁重に断った。さすが株屋の主人だけあって気が大きいと、俺はしきりと感心した。
 明けて三日目の最終コースである。最大の難所である生駒山の峠越えがある。隊形はバラバラになってきた。下士官や古兵も相当参ってきたようである。口では偉そうに初年兵に気合いを入れているが、みんなあごを出している。誰であれ、人間の体力には限度があるということだ。
 やっと峠を越えて放岡に出て、一同連隊への帰路につく。一人の落伍者もなく全員無事連隊に帰り着いたのは、確か午後四時をまわっていた。これにて二泊三日の行軍訓練を無事終了、残るは一期の検閲だけである。
 この一期の検閲は信太山演習場で三月の末に行われた。折しも雨にたたかれ、外被を泥んこにして、何が何やらさっぱり判らんうちに済んでしまった。ただ山と谷を全身泥だらけになりながら、闇雲に駆けずり回っただけの印象しか残っていない。兵舎に帰ってから洗濯に苦労しただけで、当初予想していたような体力は使わなかった。
 一期の検閲が済めば、まぁまぁ一人前の兵士として認めてくれる。入隊してからの猛訓練は、この一期の検閲を目指して励んだようなものである。
 
5 満州へ
 
 四月に入って早々、一泊二日の外出を許可してくれた。久しぶりに私服を着て勤務先であった竹田製作所へ出征の挨拶に出掛けた。
「どやぁ!今夜一杯飲もうじゃないか!」
と工場の同僚達と話しが即刻まとまり、道頓堀のたこ平に集まった。浜口、伊藤、細川らと共に夜遅くまで賑やかに飲み交わした。楽しみだった一泊二日の休暇もこうしてアッという間に過ぎ去った。
 この頃になるとさしもの猛訓練もなくなり、渡満準備に忙しい日々を過ごしていた。一部の残留組も発表された。満州出発は来る四月十日に決定した。被服装備も新品を支給され、小銃は潮風による防錆のため、手入れ用の白布でぐるぐる巻にした。初年兵一同は初めて踏む満州の土地を想い浮かべながら、固唾を呑んでその日を待っていた。
 我等第九中隊要員は西川准尉を小隊長として、第一分隊長宮内軍曹、第二、三、四分隊長は同年兵の各幹部候補生があたっている。
 四月十日、威風堂々、一つ星の二等兵大部隊は、営門を出て長蛇の列をなしながら堂々の市中行軍である。皆、悲壮且つ真剣な顔つきである。街頭に並んだ見送りの群衆は、日の丸の小旗を振って万歳!万歳!の声援をあげている。先頭の喇叭(ラッパ)隊の音は、かき消されて聞こえない。その歓呼どよめく中を、部隊は黙々と行進している。
 途中、工業奨励館の辺りで休憩をとった。たすきをかけた国防婦人会の人達が熱心に湯茶の接待をしてくれた。本当に有難くて、大いに感謝した。
 やがて築港の第三突堤に到着。早くも家族、親戚、知人達の見送りの人達でいっぱいである。御用船は岸壁に横付けされて居り、乗船まで部隊は休憩、家族との面会を許可してくれた。皆、○○君と大書した幟を掲げているのでそれと直ぐ判る。おやじ、兄貴の英信、西の兄貴、伯父の喜三郎が来ている。俺の場合、別にこれといった特別な話しもない。ここらが独身者の気安さであろう。
 ほどなく乗船開始。所定の場所に装具を整理してから、もう一度家族との別れを惜しもうと、皆一様に上甲板に駈け上がり、それぞれ必死に合図を送っている。やがて出航のドラの音が鳴り響くと見送り人は一斉に両手を高く挙げ、幟を必死で打ち振り始めた。狂気のように別れを惜しむ声が飛び交い、大騒然渦巻く光景である。兵士達もデッキから身体を乗り出し、手をちぎれんばかりに振って、最後の別れを告げていた。とうとう船は岸壁をゆっくりと離れだした。俺は一瞬、涙が溢れてくるのを覚えた。
 
6 船上にて
 
 春の日は長くやっと夕闇迫る頃、明石海峡を通過した。淡路島出身の兵隊を見送るためだろうか。たくさんの漁船に色とりどりの大漁旗を掲げ、海上からも盛んに見送っている。やがて日はとっぷり暮れ、輸送船は兵隊を隅々までぎっしり詰め込み、暗闇の瀬戸内海を重そうに航行して行った。
 夜が白々と明け始めたようだ。船室の小窓からぼんやりと明るくなっているのが判る。上甲板に数人がこっそり出て行った。俺もその後をついて行く。船は関門海峡に差しかかったようだ。後ろの誰かが「あれが巌流島だ!」と右手で指差したが、暗くて俺には充分判らなかった。
 便所は船腹から海上へ突き出して設けられている。勿論仮設のもので便器穴から白波が望める。糞がスッーと落ち、ポットンと波間に消える。板一枚波の上で少々気色悪いが、尻の下から心地よい潮風が吹き上げてくる。
 海上は至極平穏で最上の航海日和だ。難所である玄界灘も、いったい何時通過したのか判らない程、船はこれっぽっちも揺れなかった。心配していた船酔いもせず、全員元気いっぱいである。
 船中生活は至って呑気なもので有難い。朝から晩まで何もせず手持ち無沙汰で,ただごろごろしているだけである。あの内務班や教練、演習でしごかれた辛さに比べたら、これはまるで月とスッポン、天国そのものである。また米は海水で洗い蒸気釜で炊くのだが、少し塩味がついてこれがなかなか旨い。
 日中、俺はメーンマストの下に腰掛け、雄大な大海原を見渡していた。連日快晴、気分爽快。潮風を胸一杯吸っていると、自然に鼻歌が出てこようというもの。入営前愛唱していた藤山一郎の『海の若人』が、胸を張って自然と口から出てきた。ただ残念ながら、エンジンの響きが恰好の防音効果?となって途中でかき消されてしまう。
躍れ黒潮 逆巻く浪は 海の僕らの心意気〜
 航行三日目の朝まだき、甲板に出てみると右方に断崖絶壁の陸地が望める。大海原を航海しているものとばかり思っていたのに、いつの間にか手が届く程の近く迄、陸に近づいていたのには少々面食らった。間もなくあれは朝鮮半島だと判ったが、どの辺りかは全く知る由もなかった。大連にだんだんと近づいて来たことだけは、航海日数でおおよそ判断が出来る。
 

第二章 満州戦線

1 満州到着
 
 十五日の昼頃、大連港に入港した。初めて満州国の山野を目にしたのである。小舟に乗った満人の子供達が、兵隊の残飯をもらいに寄って来る。船の周囲に群がり何やらガヤガヤ言っているが、勿論、意味はさっぱり分からない。片言の日本語の「兵隊サン!メシメシ!」だけは分かる。彼らは常連なのだろう。
 大連港内の貨物専用と思われる埠頭に船は接岸し、そこから部隊は上陸した。隊の体制が整うまでかなりの時間、港の広場で待機さされた。その後、今夜の宿舎となる関東軍(※注)倉庫に向かった。さすが全関東軍の物資を賄っている所だけあって、巨大な煉瓦造りの倉庫が軒を連ねている。ここで異国での記念すべき第一夜を過ごすことになった。
【※注:日露戦争後のポーツマス条約によって、日本は遼東半島の租借権を獲得した。この半島の先端に近い地域を関東州といった。その由来は渤海に面した山海関の東に位置するからである。山海関は「万里の長城」の東端の関所であった。そこで「関所の東」の意味から関東と呼ばれた。大正八年、日本はこの関東州に軍隊を置き、これを関東軍と称したのが始まりとされている。】
 翌十六日に早速外出許可が出された。西川准尉から外出中での指示、注意事項を細々と聞かされた。単独行動は厳禁されているので、数人でグループを組み、思い思いに不案内の街に出て行った。俺のグループは、先ず浪速町という遊郭の在る所に行ってみた。しかし、我々は一つ星の初年兵でもあるし、上がり込む度胸もなく、一軒一軒ただ冷やかして通り抜けただけである。
 さて、次は何処へ行くという当てもない。
「それではひとつ人力車にでも乗って、一番賑やかな所へ行ってみようじゃないか!」
と誰かが提案した。一同即座に話がまとまり、早速雑踏の町中を人力車を連ねて行進した。まるで殿様気取りで車上から見下ろし、物珍しげにキョロキョロしながら街の風景を思う存分楽しんでいた。内心意気揚々、この時ばかりは戦争のことなどきれいさっぱり、頭から消え去っていた。
 繁華街の大きな飯店で昼飯を食ってから、市街を一望できる高台にある公園に向かった。その中の、とある茶店に腰を下ろした。そこには日本人の娘さんらしいのが居た。どこかいたいけなその娘さんといろいろ話をしている内に、すっかり意気投合して大いに話が盛り上がった。別れるのは惜しいが、そろそろ帰営時間が迫ってきた。その場でずっといたい気持ちを抑え、心を残しながらも思い切って席を立った。なかなかの別嬪さんで、それから数日もの間、募る想いが瞼から離れなかった。
 
2 満州鉄道の旅
 
 十七日の夜、いよいよ新任地に向け大連駅から出発である。満鉄機関車の堂々たる巨体には、正直度肝を抜かれた。満州の赤い夕陽を浴びながら、いよいよ大陸列車の旅が始まる。幸いにも貨物車ではなく客車に乗ることが出来た。
 なお、満鉄にはあの有名な特急「あじあ号」が走っていた。冷暖房完備、八両編成の豪華列車で大連〜新京間704キロを8時間30分で走破。蒸気機関車で最高時速150キロとは大したものである。誰もが一度は乗ってみたいと願っていた。
 さて、我々の列車は大満鉄の鉄路を北に向かって走り続けている。何しろ軍用列車であるので小さな駅はどんどん通過するが、一旦停車したらなかなか動こうとしない。恐らく停車場司令部の指示命令で動いているのであろう。
 客車は楽だと思っていたが、反面身体を伸ばすことが出来ない。そこで座席の下とか通路で横になるが、ほとんど眠れない。俺は疲労から肩が凝りはじめ、さらに歯茎が腫れ歯が浮いてきた。そして遂に弁当が食べられなくなったのには閉口した。
 遼陽(リャオヤン)から関東軍司令部が置かれている奉天〔現在の瀋陽(シェンヤン)〕、そして四平(スーピン)を経て列車はいよいよ満州国の帝都である新京〔現在の長春〕に近づいてきた。随分手前から汽車はそろそろと徐行しては停止、再び徐行しては停止を繰り返す。窓の外を見ると、大都会の建築に使用する煉瓦製造所が、あちらこちらに見られる。その林立する煙突から、もうもうと煙が掃き出されている。新京は日本が威信にかけて新たに建設した近代都市である。
 新京を過ぎてから、列車は進行方向を反対向きに変えた。はて?妙なことをするものだ。一旦北に走り、次は南下する。どうやら迂回コースをとっているようだ。これまでは大平原を突っ走してきたが、今は風景も一変し山岳地帯を縫うように走っている。原生林が鬱蒼と生い茂り、窓から手を伸ばせば木の枝に届くような所を通過したりする。
 山岳地帯を抜けると、間もなく一面波に到着した。一面波に駐屯する独立守備隊には、青年学校の一年先輩が入隊していた筈だ。しかし、程なく胸を病んで入院したとか聞いたが、大丈夫なのだろうか?先輩と一緒に過ごした頃のことを思い浮かべ、懐かしく思い、早くも望郷の念がこみ上げてきた。
 停車中にふと窓の下を眺めると、ロシア娘が線路際の花を摘んでいる。実に顔色は白く金髪で瞳は澄み、肌は透き通るように綺麗だ。初めて見るロシア娘の美しさに唖然とした次第である。満州にはロシア革命以降移住したロシア人が相当数居るようだ。彼らは白系ロシア人と呼ばれていた。
 列車は更に走り続け牡丹江(ムータンチャン)に着いた。窓から鉄道連隊の兵舎である大きな赤煉瓦造りの建物が望める。駅周辺は新興街として発展途上であるが、遙か向こうに大きな町が望見出来る。牡丹江の旧市街はさぞかし人口の多い、満州でも指折りの大都会であろうか?
 しばらく停車の後やっと発車、ここで東寄りに向きを変え始めた。やがて林口という駅に到着。この駅で線路は二手に分かれる。ひとつは佳木斯(チャムース)方面、もうひとつは鶏西(チーシー)・密山(ミーシャン)方面へと延びる線である。駅近くの高台の上に、駐屯する独立守備隊の兵舎がぽつんと建っている。我が列車はここで密山方面に向かう鉄路に乗り入れ、ただひたすら走り続けた。
 以降、楚々とした平原が果てしなく続き、時には見渡す限りの湿地帯が広がっていたりする。鉄路はなおも一直線に地平線に向かって長く長く無限に延びているようだ。視界を遮るものは何一つとしてない。右手遙か彼方に満州とソ連国境(満ソ国境)の山々の稜線、左手には遠ざかってゆく奥地山岳地帯の連峰がかすかに望める。
『しかし、さてもまぁ〜こんな荒れ果てた湿地帯に鉄道を敷いたものだ、凄いもんだなぁ〜』
と一人しみじみ感慨に耽っていた。
 
3 新密山到着
 
 夕刻、目的地の新密山駅に到着した。大阪港を出てから延べ十日間の旅であった。三日三晩の間列車に揺られ、すし詰め状態で乗車していた。この間、肩凝りが原因で俺の歯は浮きだしていたので、食事はほとんど満足にとっていない。
『これでやっと長い汽車の旅も終わった、あぁ〜ヤレヤレ』
と安堵の気持ちいっぱいで駅のホームに降り立った。
 駅周辺は見渡す限りコーリャン畑が広がり、広漠としている。まばらに建物があるだけだ。ここから連隊まで徒歩による行軍である。連隊の営門を入った頃、辺りは夕闇迫り薄暗くなっていた。兵舎は昨年建設されたばかりで真新しく、煉瓦色も鮮やかである。構内の営庭はコーリャン畑の跡が残り、まだ充分整地されていない。そのため足下が悪く、ごろごろの土や石の塊があって歩きにくい。
 兵舎内部は内地と違い中二階で、ベッドは二段式である。古兵は上、初年兵は下で寝るのである。電灯はなくランプ生活である。その夜は旅の疲れと睡眠不足が重なり、何も考える事無くぐっすり眠った。
 翌日、初年兵は落ち着く間もなく、早速営庭の整地作業にかり出された。重いコンクリート製のローラを、馬や牛の代わりに人間が引っ張り、ゴロゴロ転がすのである。スコップで地均しした所をローラで締めつけてゆく。兵士は片時も遊ばしてくれない。
『旅の疲れを癒すため、今日一日ぐらいゆっくり休養させてくれてもいいのになぁ』
などと心の中で延々とグチをこぼしながら、兵舎周辺の整地作業に一日中従事した。
 この兵舎には歩八の連隊本部と第二、第三大隊の歩兵砲隊が駐屯している。隣接して野砲第四連隊の兵舎もある。初年兵で到着早々のことでもあり、部隊の配置状況など何も分からない。ただひとつ教えてくれたのは、我々がこれから向かうのは、第九中隊の駐屯地であった。その駐屯地はここから約三十二キロ向こうにあり、満ソ国境最前線の廟嶺と云う所らしい。なお「廟」とは道教の寺院を意味するらしい。
 
4 廟嶺駐屯
 
 その最終目的地に向けて出発したのが二十三日の朝であった。有難いことにこの度は自動車輸送である。トラックに分乗した我々は、満ソ国境に近いこの大陸の風景を,車上から漠然と眺めていたのである。
 旧密山の満人街を過ぎると、もう民家はパラパラと点在するだけで無人の荒野がどこまでも続く。このトラック輸送も途中までで、中間地点辺りで下車させられた。これ以降、徒歩での行軍である。重量三十キロにものぼる軽機、小銃、弾薬それに背嚢携行の完全装備であるので、この行軍は大いに体に堪えた。
「もう直ぐだ!頑張れ!」
と西川准尉は檄を飛ばすが、一向に廟嶺に着く気配がない。皆フラフラになり疲れも頂点に達し、もう駄目!これ以上歩けない!と思ったその時、中隊が駐屯している兵舎が見えた。
 稜線に立った西川准尉は、小休止を命じて各自服装を直せと言われた。早くも夕暮れ近くなり、あたりはぼんやりと暗くなってきた。夜間入営である。今考えると、あの時トラックから降ろされて歩かされたのは、夜間に中隊に到着するように計画された作戦であったと思う。ソ連兵の監視から隠ぺいする目的があったのだろう。
 その夜、第三小隊の有馬分隊に配属になった。装具を解き終えた頃、分隊長の有馬上等兵が勤務を終えて帰ってきた。背の高いひょろひょろした感じの分隊長であった。
 兵士達の身体は真綿の如くフニャフニャに疲れ切っていたので、何もかも忘れて一気に眠りについた。どれくらい眠っただろうか?突然夜中に、一斉にたたき起こされた。
「非常呼集だ!全員直ちに装具を着けろ!」
訳が分からないまま、慌てて中隊本部前に集合した。軍隊ではいちいち理由など説明してくれやしない。ただ命令有るのみ。
 まだ夜は明け切っていない。四月下旬とは言え、寒気が身に堪える。直ちに駆け足で山の頂上目指し、必死で駈け上がった。
 頂上付近にたどり着いた頃、やっと夜が白々と明け初め、辺りがぼんやりと明るくなってきた。ソ連側から見えない地点に集結してから、ほふく前進で頂上に出た。視界が開け眼前のソ連側稜線がかすかに望める。辰巳少尉が言われた。
「あれがソ連領である。地形をよ〜く見て頭に叩き込んで置け!」
特に変わった特徴のあるという地形でもない。ただ恐る恐るかいま見ただけであったので、何ら記憶に残っていない。
 その日に編成替えがあり、俺は第一小隊第一分隊に所属することになった。分隊長は内地からずっと行動を共にしてきた宮内軍曹、先任上等兵は山村上等兵で三年兵である。この隊は二年兵と召集兵ばかりで構成され、初年兵は俺ひとりである。
『これはどえらい貧乏くじを引いたもんだ!』
と悔やんでも後の祭り、最早どうにもならない。
 その夜から不寝番勤務をきっちり割り当てられた。不寝番といっても国境最前線であるので、小隊単位の歩哨である。宮内軍曹には内地に居るときから、よくどやされた。どうも軍曹とは相性が悪く水と油,全くウマが合わない.いまいちスッキリせず憂鬱な気分になってきた。しかし、分隊の古兵には可愛がられたので、俺もそれなりに良く言う事を聞いて、こまめに動いたのものである。
 兵舎は満人が住んでいた家屋を、そのまま使用しているのでとても狭い。一軒に二個分隊づつ住み、各小隊がばらばらに分散し、その中央に位置する家が中隊本部になっている。無論ここも新密山同様、ランプ生活である。
 中隊長は有島大尉で、中隊付将校は士官学校出身の河野中尉、召集の辰巳少尉と中野少尉、人事係の近藤准尉、教育係の西川准尉である。下士官には炊事班長の小坂軍曹の他、宮内軍曹、福岡軍曹、国行軍曹、功績係で中隊本部にいる川村軍曹、三年兵の角谷伍長(後軍曹)、同じく三年兵の加古伍長(後軍曹)、熊取伍長(後軍曹)、貴島伍長、近藤伍長、召集の下士官勤務で分隊長の有島上等兵、棚橋上等兵、三年兵の松浦上等兵、同じく奥田上等兵の面々で小隊編成されている。宿舎は分隊単位で分宿、起居している。
 廟嶺は関東軍工兵隊の佐々木部隊が、陣地構築のため駐屯している。この春明けと共に本格的に工事が開始されたばかりである。北支方面から駆り出されてきた、千名にものぼる苦力(※注)が働かされている。建設資材が連日トラックで次々に運ばれてくる。山上の陣地工事現場はソ連側から見えないように遮蔽されているので、遠くから一見すると工事現場はそれと直ぐ判る。苦力の監督は技術者の軍属が行っている。我々の中隊は、国境近くの監視哨から砲隊鏡でソ連領内の動きを監視し、その状況を逐一記録する任務である。
【※注:クーリーと云う。土木作業、荷物の運搬の使役に従事さされる労務者とか人夫のこと。】
 
5 廟嶺任務
 
 五月に入ると山野に色とりどりの草花が一斉に咲き乱れ、あたりは百花繚乱の風景をかもし出す。空は雲一つなく快く澄み渡り、閑古鳥の鳴き声がのどかに聞こえてくる。僅か1ヶ月も経たぬ間に周りの景色は急激に一変した。ここに来た時にはまだ残雪があったのに。
 ともすれば軍務のことなど忘れてしまいそうな、実に静寂で大自然に包まれた平和な郷である。ただひとつ、陣地構築のため人間が蟻のように働いていることを除けばである。満州各地から集められた苦力達が、黙々と作業を進めている。国境線なのでダイナマイトは一切使用されず、すべて人力で穴が掘られ、土はモッコ(※注)で運ばれる。全て人海戦術により、昔ながらの土木工事が行われている。
【※注:むしろとか蔓を編んだものの四隅に吊り紐をつけ、土を盛って運ぶ道具。天秤棒の両端に架けて運ぶ。】
 有島中隊長は、兵隊から下士志願をして少尉候補生試験を受験、大尉に昇進した程の頑張屋である。であるから兵隊の訓練は連日兵舎の周辺で厳しく行われた。音の出る空砲は使用されないが、主に対戦車攻撃や実戦さながらに地形を利用した戦闘訓練に明け暮れた。その一方で、交代勤務として国境監視に就くのである。夜は毎日と言ってよい程、不寝番の勤務が回ってくる。
 初年兵は分隊内務の雑用に追い回され、自分でも判るぐらい心身共に疲労しきっていた。このことは体重の大幅な減少が、はっきり証明している。
 ある日、分隊先任上等兵である山村上等兵を長とする監視哨勤務に就いた。つややかな草いきれの香りする、穏やかで暖かいポカポカ陽気の日和であった。砲隊鏡を覗いていると、余りにも単調で退屈な作業についウトウトしてしまう。我慢に我慢を重ねていたが、ついに睡魔が襲ってきた。
 どうにもに我慢ならない睡魔と悪戦苦闘していた、そんな日の午後一時頃であった。下の方から何やら大声が聞こえてきたのでふと振り返ると、オート三輪車に乗った佐官級の将校がいる。山村上等兵は、直ちに山を駈け降りて行った。帰って来るなり、俺に命令した。
「直ちに護衛兵として一緒に行け!」
さっぱり訳が分からないまま、急きょ山を駈け降りて行った。将校は工兵の佐々木部隊長で、一人お供として憲兵上等兵が運転していた。奇縁であったのはこのオート三輪車のキャブレターは、俺が勤めていた竹田製作所製造のゴーアヘッドキャブレターであったことだ。
 オート三輪車は国境線沿いに、無人の荒野を猛スピードでどんどん突っ走って行った。やがて富壁鎮という所にある巨大な湖、興凱(ハンカ)湖の畔にある満人部落に着いた。民家の密集している比較的大きな部落である。川向こうの鉄条網に囲まれたソ連側の兵舎に、目と鼻の先まで近づいた。初めて見るソ連人を目の前にして、その図体のでっかいのには驚いた。
 次にアヘン窟のような所を見学に行った。満州辺境の山地の谷間ではアヘンが古くから栽培されていた。満州国政府にとってアヘンは主要な収入源になっていたことを、俺は後になって知った。
 さて、薄暗い内部には老人達が眼も虚ろに身動きひとつせず、粗末なベッドで横たわっている。傍らにはアヘンを吸うための長いパイプが転がっている。気持ちの良い所ではない。あまりの異様な雰囲気と不気味さに呆然と立ちすくんだ。俺は思わず背筋が冷たくなるのを覚えた。早々に退散し、その後あちらこちらと部落内を見て回り帰路についた。
 何のことはない。これは佐々木部隊長の単なる偵察遊びであったのだ。だが、俺は珍しいものを見せてもらって、思わぬ得難い体験をして得をしたものである。
 監視哨勤務は実に単調で、薄暗くなって引き揚げるまでの時間が極めて長く感じられる。が、初年兵にとってはこれがまたとない絶好の休養となり、心身共にのんびりとした一日を過ごせる良い任務ではあった。時には指呼の間に望めるソ連監視哨の掩蔽塚上に、ソ連兵が突っ立ってこちら側を伺っているのが見える。呼べば答える程の至近距離にある。
 夜間は下士哨が出て、要所要所に歩哨が立って警戒する。ある夜、有島上等兵を長とする下士哨勤務に就いた。下士哨から数百メートル先に歩哨に立つのである。狼の遠吠えが、どこからともなく聞こえてくる。今にも背後から狼が飛びかかってくるのではないか、という恐怖に陥る。時折、ソ連領の方で照明弾がヒューと打ち上がり、なお一層不気味である。
 人間一度恐怖心に襲われると、もうどうにも止まらない。情けない話であるが、俺は大の恐がり自慢である。こんな薄気味悪い真っ暗闇の中で、じっと立って居れない。そこで地面にヘナヘナとへばりついてしまった。しばらくそのままの姿勢でいると、後方でヒタ、ヒタッと足音が聞こえるではないか!いやなことに、こっちに向かって迫って来るようだ。狼か?巡察か?いやひょっとして敵かも知れない。そう思って、俺はビクビクしながらなおもじっと地面にへばりついていた。すると目の前にス〜と人影が浮かんできた。恐怖心を払いのけ、目をつぶり思い切って一気に立ち上がった。
「誰だっ?
と怒鳴った。突然の大声に相手は不意をつかれたのか、一瞬ギクッとたじろいだようだ。
「俺だ!近藤准尉だ!異常はないか?
と聞かれた。俺は即刻答えた。
「ソ連領に照明弾が上がると苦力小屋の方向で、懐中電灯のようなもので丸く弧を描くように灯りを振っている者が居りました!」
 この報告で直ちにその苦力小屋に捜索隊が赴き、灯りの有無を調べたそうである。後で近藤准尉に
「小川二等兵の機転の利く歩哨勤務要領は非常に宜しい」
と褒められた。俺は別に真面目にやっていたのではなく、独りぽっちで恐ろしかったのと、何だか眠くなったので地面に寝そべっていただけのことである。真相が分かれば、反対に怒鳴られるところであっただろう。
 この下士哨勤務の時、止せばいいのに有島上等兵に
「上等兵殿は何故メンコ(※注)積まなかったんですか?」
とつい口を滑らして聞いてしまった。突然、上等兵殿は顔を真っ赤にして大声で
「お前はメンコという意味を知っとるのか?人の癇に触るようなことは二度と口に出すな、ええか>
と大層激怒し、散々な目にあったことがある。
【※注:「何故、下士官志願しなかったのか?」という意味】
 昭和十三年六月十日付をもって初年兵は星がひとつ増えて、一等兵に進級した。そして俺は精勤章をもらった。この日、第一分隊から第二分隊に編成替えされた。分隊長は有島上等兵である。初年兵はこの分隊に小西他二名居り、俺も気分的に大分楽になってきた。
 日本海に面する満ソ及び朝鮮国境に位置する小さな丘で、ソ連軍と最初の軍事衝突が勃発した。これが「張鼓峯事件」であり、翌年のノモンハン事件に発展していくのである。我々部隊は非常事態時の厳戒体制に突入した。ソ連軍侵入に対し、あらゆる攻撃に即応するため、万全の体制が敷かれた。背嚢袋には弾薬、携帯食料、着替えその他戦闘に必要な品々を完全収納した。水筒には湯茶を補給、巻脚半に軍靴で常時待機の姿勢である。夜間就寝中でも巻脚半を解いてはならぬ!という厳命であった。
 中隊内にはピーンと張りつめた空気が流れ、得も言われぬ緊張に包まれた。何となく息苦しい雰囲気の中で、落ち着かない日々が続いた。しかし、約二週間後の八月十日、予想外に早く休戦が締結され、この非常事態も解除された。四六時中の巻脚半装着には、全員が参っていたようである。
 満州の夏は思った以上に暑いが、夜ともなると寒いぐらいに気温が下がる。北海道北端とほぼ同じ緯度に位置するので、午前三時頃には早くも白々と夜が明け始める。
 週に何回かは酒保(※注)が開かれる。今でこそ俺は酒をよく飲むようになったが、若かりし頃は下戸で大の甘党であった。とりわけ練りようかんが大の好物だったので、よく買って食べた。いっぺんに二、三本を平気で平らげたものである。又不寝番の時なんぞ、炊事場から砂糖を飯ごう一杯ちょろまかした。そこまでは良かったが、ナメナメしていたら腹の調子が悪くなった。そんな甘くて苦い経験もある。
【※注:兵営の中で兵士相手に日用品、飲食物などを売る売店】
 国境は依然として平穏であった。土砂降りの大雨が降り、一寸先も見えない真っ暗闇のある晩のことであった。二年兵以上の選り抜きの精鋭ぞろいが、中隊長指揮の元に秘かに越境して地形偵察に出掛けた。残念なことに俺は参加出来なかった。夜明けと共に隊員達は全身泥んこになり、くたくたに疲れて帰ってきた。参加した山村上等兵は、どえらい目にあったと懇々と苦労話をしてくれた。
 
6 廟嶺軍隊生活
 
 ある日、関東軍測量隊の軍属の護衛として一個分隊が派遣され、俺もこの任務に参加した。興凱湖北部の満ソ国境に近い大白山方面に、測量調査のため出動要請されたのだ。何日も泊まりがけで、道無き山岳を山越え谷越えて、三角点設置と測量の手伝いをした。偵察とか軍事行動ではないので、この任務は毎日が楽しみであった。今風に言えば登山とかトレッキングのようなものであろう。心ゆくまでアウトドアライフを満喫したのだ。
『測量の仕事とは面白いものだ、俺にはうってつけかも知れんなぁ〜』
将来、俺は参謀本部の陸地測量部に志願したいと考え始めた。
 「陸軍工科学校を志願する者は居らんか?」
と週番下士官が通知のため分隊ごとに廻ってきたので、俺は翌日申し出た。すると近藤准尉がテストしてみると言って模擬試験をやらされたが、問題が皆目判らず、全く解くことは出来なかった。これでは工科学校の試験にはとても受からないだろうと思い、潔く諦めた。
 陣地(トーチカ)工事現場の方は、我々中隊は用事がないので見に行ったことが無く、進捗状況は不明であった。八月下旬頃、偶然にも熊取伍長等と共に見学する機会を得た。トーチカ内部に入って見上げると、天井及び壁体はコンクリートでガチガチに固められている。銃眼は国境を越えて侵入してくるソ連軍を迎え撃つ様に設けられている。
 熊取伍長はポツリと独り言のように言った。
「こんなお粗末なものでは、いざ実戦となると、ひとたまりもなくやられてしまう。どれぐらい持ち堪えられるか時間の問題だな」
俺も全くその通りだと思った。
 それはさておき、ほとんど完成に近いほど仕上がっていたのには感心した。実に突貫工事であった。苦力もぼつぼつ引き揚げてゆき、残り少なくなっていた。冬将軍の到来する迄に、完成する計画であったのだ。
 九月に入ると朝夕相当冷え込んでくる。満州には四季が無い。すなわち春も秋もないのである。夏から冬に向かって一足飛びに、駆け足で過ぎて行く。このため樹木は紅葉する間もなく落葉してしまうのである。
 慌ただしい陣地構築の完了と共に、我等有島隊はこの新しい陣地に配置されることもなく、第十中隊(杉浦隊)と交代することになった。思い出深い廟嶺の地とも、遂にお別れの時が来た。僅か数ヶ月ではあったが、渡満して初めて暮らした土地である。恐らくもう二度と来ることもあるまいと思うと、何かしら未練が残るが、このような辺境の地に長く居るものではない。俺はトラックの上から廟嶺の山野を眺め、しばし感慨に耽っていた。だんだん遠ざかっていく国境の山々に向かって
『さらば廟嶺よ!お世話になったなぁ〜、でも俺は行くぞ〜!』
と大声挙げて叫びたい気持ちになった。感傷に浸りながらも、ある種の別れの寂しさがこみ上げてくるのを、押さえることが出来なかった。
 
7 再び新密山にて
 
 廟嶺出発後、密山の町に駐屯する連隊に再び宿泊した。煉瓦造りの兵営らしい立派な兵舎に落ち着いた。連隊長は杏大佐で朝鮮人みたいな名前である。第三大隊長は吉原少佐である。
 付近一帯は見渡す限りの平野である。錦城山と名を付けられている石切場のちょっとした小高い丘らしいものが、唯一望見できるぐらいで、他に目に付くものは何もない。演習場は無限にあるので、演習の大好きな有島中隊長は魚が水を得た如く、大張り切りである。連日演習指導の陣頭に立ち、猛訓練を始めた。廟嶺で思うように訓練できなかった分を、ここで一気に取り戻そうという訳である。
 内務班長は加古軍曹、班付伍長は貴島伍長、先任上等兵は吉本上等兵であり、内地の兵営生活と何ら変わるところがない。俺の部隊衛兵勤務は何時も軍旗歩哨で、連隊長室の前で立たされる。将校の出入りが激しいので、捧げ銃の敬礼をしっぱなしである。とりわけ服装は特に厳正にしていなければならない。
 衛生所での想い出は、饅頭をくすねたことである。酒保の出入り商人が帰る時、荷物検査をする。夜間のこととて誰も見ていないので、俺はいつもこっそりと売れ残りの饅頭をポケットに入れ、何食わぬ顔で戻ってきて、異常なし≠フ報告をした。役得と言うか、これはもう悪く言えば盗人そのものである。
 部隊衛兵の他に水源地衛兵と官舎衛兵があるが、こちらは兵舎の外に出ることが多いので、部隊衛兵よりは気が晴れて楽である。
 ある日突然、匪賊(※注)討伐に出動するよう第三大隊に命令が下った。直ちに新密山の駅から列車に乗り、林口の手前にある小さな駅で下車した。日本人農業開拓移民集落を通り抜け、山奥深く分け入った。この辺りは水田もあり、開拓団も相当数入植しているので小学校もある。
【※注:集団で働く盗賊、土賊。この頃中国全土に渡り盗賊団が暗躍していた。一説によると、匪賊の総数はおよそ二千万人に達していたと云うから驚きである。匪は謀反の徒を意味する。満州では馬賊とも云う。彼らは追い剥ぎの他村落を襲い略奪、放火、脅迫、誘拐等あらゆる悪事の限りを尽くしていた。村の周りに柵や土壁を設けているのは、自衛のためである。】
 山中での行動中、蚊の大軍に大いに悩まされた。重い軽機関銃を担いでいるので、思うように片手を自由に動かせない。蚊に刺されるまで判らないのだ。
 苦労して山中をひと回りしただけで、匪賊の足跡すら発見出来なかった。結局、何事も起こらず、何の成果もないまま討伐は終了した。これは単なる部隊行軍の演習のようなものであった。
 だんだんと寒くなってきた。兵営の浴場ボイラーが故障した時、近くの民営の銭湯に行った。その帰り営門に辿り着かない内に、タオルは棒のようにカチカチに凍りついてしまった。
 ある日、中隊訓練の演習中、軽機の脚の先端で自分の足を誤って突いてしまった。右太股の傷口は,ぽっかり穴が明いたようになっている。そのうち直るだろうと自分で治療を施していた。日々ズキズキ痛むのを辛抱していたそんな時、第一大隊の警備地域の最北端であるウスリー河畔の饒河という分化地に派遣されるよう編成された。しかし、俺は足の傷が治りきらず歩行も困難であったので、この旨申し出て饒河派遣要員を取り止めにしてもらった。傷はとうとう化膿し始めた。これはいかんと軍医の診察を受けたところ、医務室に入室を命じられ、入院して治療を受けることになった。
 時あたかも部隊の総力を挙げて、大がかりな湿地演習が開始された。医務室の窓からその様子をぼんやりと眺めていた。兵士達は湿地歩行用のかんじきを背負い、対戦車の棒地雷を担いでいる。完全装備で中隊ごとに営門を出て行く。俺は何が幸せになるか判らん世の中だと、つくづく感じ入った。もし足に傷を負わなければ、饒河に派遣されていたか、またはこの湿地大演習に駆り出されていた。重い機関銃を担ぎ、湿地の中を這いずり回り、心身共にくたくたになっていたところであろう。
 この演習に先立つ予行演習の時、完全装備せよと言うから、分隊長が携行する軽機の予備銃身も貴島伍長の背嚢にくくりつけたが、帰って来るなり
「お前はけしからん奴だ!俺を殺す気か!」
と怒鳴られた。予備銃身がよほど重かったのかも知れない。
 傷の化膿も思ったよりも早く順調に治った。皆湿地演習に出掛け、人気のないがらんとした兵舎に俺は戻ってきた。兵舎の娯楽室には「麦と兵隊」や「北満だより」のレコードがある。このうち「北満だより」は召集兵が好んでよく歌っていた。
新京をい出て幾山河 今じゃ匪賊の影もなく
 雪や氷に閉ざされて 赤い狐が泣いとるぞ
 班の吉本上等兵が伍長に任官したので、その後釜に俺が兵器係の助手を命ぜられた。兵器庫の中で吉本伍長から各種兵器の取り扱い方をいろいろと教わった。特に兵器の梱包の仕方を、丁寧に指導してくれた。俺が今でも梱包が上手いのは、実はこの時習ったお陰である。
 十一月十三日だったように思う。第四師団と交代する第十一師団(善通寺)先遣隊を駅まで迎えに行ったことがる。その兵隊達の身なりを見て驚いた。何故か判らないが、兵器、装具、被服に至るまで、全てが新品のぴっかぴっかであった。
 やがて兵舎はその第十一師団の先遣隊と同居という形になった。兵隊が一時に多くなり慌ただしくなったが、その内召集兵と三年兵の一部は内地に転属のためこの兵舎を去り、代わりに補充兵が入隊してきた。
 上等兵候補者の進級実科試験が、西川准尉の査閲で行われた。俺の試験は部隊の整頓であった。この時とばかり大張り切りで、満身に活気溢れる大声で号令をかけた。動作は何一つ間違わずに行い、我ながら上出来だと思った。
 昭和十三年十二月一日付けで第一選抜の上等兵に進級した。同時に二本目の精勤章を戴いた。しかしながら序列は思ったより下の方だった。伍長勤務(伍勤)の上等兵を夢見ていた俺には、内心少々がっかりした。上等兵に進級したのは下士候補の五名と森、前橋、大友、坂本、横田、同年兵の久田、上田、西田、東野、小西、吉田、小山、石岡、そして確か十四番目の俺である。俺の後には六名いた。
 陸軍工科学校受験を廟嶺駐屯時代に申し込んだことがあった。とっくに諦めていたし忘れていたのに、突然、受験命令が舞い込んで来た。早速おやじに手紙で志願することを通知したところ、出発も間近い日に折り返し返事の手紙が来た。
『お前が満州に居るためにウチの家は出征兵士の家として町内でも鼻が高い。それをこともあろうに、工科学校を志願して東京に帰って来るとは、まことに都合が悪い。絶対にそのまま満州で居れ』
という文面の手紙を受け取った。
 俺も実のところ、兵技下士官は軍刀を帯刀出来るのではなく、兵士と同じように細いごぼう剣なので、どうも貫禄が無いなぁと思っていた矢先のことだった。あまり面白く思っていなかったところにおやじからのこの手紙。これは断る口実にはもってこいだと早速人事係の近藤准尉に手紙を見せた。准尉は直ぐに了承してくれて、取り下げ連絡に連隊本部まで走ってくれた。
 新密山に来てから射撃訓練がよく続いた。俺は軽機手、すなわち軽機関銃の射手である。小銃の方はさっぱり駄目なのに、軽機はやたらと成績が良い。妙なこともあるものだと我ながら内心不思議がっていた。そんな時、以外にも昭和十三年度射撃優秀者として賞状をもらった。その賞状は初年兵にくれる第一種射撃徽章授与である。中隊には一名か二名しかくれない。兵士にとっては何よりも栄誉に輝く実績である。俺はこの上もなく嬉しかった。
 
8 新任地へ
 
 十二月下旬、いよいよ我々も新任地へ向け出発する時がきた。折角落ち着いた、この新密山の兵舎ともお別れとなった。既に周りは厳寒の銀世界となっている。昨年初めてここを訪れた時、一面に青草の生えていた平原は、今は白一色のまばゆいばかりの大雪原となっている。
 列車は新密山駅を出発、林口に至り、ここで三江省(現在の黒竜江省)奥地の佳木斯(チャムース)行きの線路に移る。山岳地帯を縫うように曲がりくねりながら勃利に着いた。そこより更に列車は北上を続け、千振という駅で中隊は降り立った。この時ふと気がついたが、列車は一切汽笛を鳴らさず、鐘をカーンカーンと鳴らすのみであった。寒冷地のため、蒸気を噴出する汽笛では支障があったようだ。
 有島中隊はここ千振でしばし一休みの後、駅前で待機していたトラックに輸送を切り替え、更に奥地に向かった。比較的起伏のゆるい山道を登ったり下ったりして、小石頭河子という地に着いた。
 我が中隊は、こぢんまりした煉瓦造りの兵舎に落ち着いた。この兵舎は今まで第十師団、すなわち姫路の連隊が警備していた所だ。兵舎の裏に満州鉱山株式会社の建物がある。同社は砂金を採取している会社である。巨大な採取機が、湿地の中で野晒しになっている。付近は盆地のようになっており、山あいのちょっと開けた平地である。
 俺は兵器係なので兵器と共に輸送されてきた。兵器弾薬の梱包品を直ちに開梱、整理しなければならない。その梱包品の中には炊事勤務の召集兵に頼まれた味の素、甘味品、缶詰類も入っている。これらは出発前に連隊の炊事場から、炊事兵がちょろまかしてきた品々である。その内のパイナップルやみかんの缶詰を、俺はこっそり兵器庫に隠してあった。いわゆる盗人の上前をピンハネしたのだ。ところが兵器庫を見回りに来た西川准尉に目ざとく見付けられた。
「何だこれは?隠匿兵器か?」
俺は一瞬青ざめ、しまった!と思った。しかし、まぁ何とかその場をうまくごまかして切り抜け、事なきを得てホッとしたのである。
 
9 小石頭河子駐屯
 
 昭和十四年の正月は、この小石頭河子で迎えた。ここは一個中隊が駐屯している分化隊である。兵舎は満州鉱山にある発電所のお陰で電灯がついている。チラチラはするが、廟嶺や新密山のようなランプ生活ではない。ここではランプのホヤの掃除をしなくてもよいのだ。北満の僻地とは思えないほど快適である。一方屋外の寒さは筆舌に尽くし難く、日中でも零下二十度位である。班内はどんどんストーブに薪をくべるので暖かいが、一歩外に出ると身体が痛いほど寒い。
 耐寒訓練としてシャツ一枚での銃剣術訓練が、日課として行われる。その上に薪割りの使役も加わる。一生懸命やると、シャツ一でも身体がホカホカしてくる。便所掃除の使役は、カチンカチンに凍った人糞を鉄棒でもって叩き割るのだ。時たまその破片が額に当たったりする。破片は温もりで融けだし、やがて異臭を放つようになるものだから、これはもうたまったものでない。また窓ガラスや飯缶にうっかり手をつけようものなら、たちまち引っ付いて取れなくなる。兵隊は防寒具着用だが、外気の寒さは容赦なく身体に襲ってきた。
 一月のある日、師団の冬季演習に参加する光栄を得た。編成は下士候補ばかりで森が分隊長となり、俺が二番で軽機射手、坂本が三番、八友が四番、前橋が五番の計五名である。
 鉱山会社の連絡便トラックで千振の駅に向かう。同年兵ばかりなので気が楽である。千振で三大隊の各中隊から派遣されてきた連中と合流、勃利から来た演習参加要員輸送列車に乗り、佳木斯に向かった。途中、日本人開拓義勇団の多い彌栄を通過して佳木斯に到着、宿舎となっている師団通信隊に一旦落ち着いた。
 この付近一帯は、師団施設の建物が集中している新興街である。師団司令部が存在するだけでこのような立派な町が出来るとは、たいしたものである。その師団で演習中の装具、白布、白金懐炉その他必需品が貸与された。
 演習は最も気温の下がる夜中から早朝にかけて行われた。防寒外套の上に毛布一枚だけ被って、一晩中凍った地面にひれ伏せて待機、夜明けと共に一斉に陣地を攻撃するのである。息をひそめ動かずじっとしているので、寒さが全身に堪えてくる。絶えず手足を小刻みに動かしていないと、凍傷にやられてしまう。眠ったら最後、即凍死である。互いに眠らないよう牽制し合う。演習中とはいえ勿論、声は一切出せない。忍耐と辛苦の長い長い一夜を過ごした。
 夜がうっすら明け始める頃、やっと行動開始。各隊は散開して第一線陣地を突破、間髪入れず第二線陣地を攻撃、息もつかせぬ進撃である。一晩中激寒に耐え一睡もせず、今度は重い防寒具を着けての戦闘訓練である。
『しかしこんなことでは、なんとまぁ〜氷点下三十度以上!にもなるというシベリアでの戦闘活動なんてもっての外。とても日本軍には出来るものではないだろなぁ』
とこの時俺は確信した。唯ちょっと走るだけで精一杯、他の事をする余裕は全くなかった。訓練でこの有様であるから実戦ではどうなることやら・・・
 
10 白金懐炉盗難事件
 
 貸与してくれた白金懐炉は、すこぶる調子が良かった。返納するのが惜しいと思っていた矢先、隣の坂本が何と!懐炉を寝台の下に落っことしているではないか!どうやら本人は気付いていないようだ。俺はその懐炉をこっそり拾い、自分の背嚢の片隅に隠した。やがて白金懐炉を回収しに来た。坂本が突然、真っ青になって騒ぎ出した。
「大変だぁ〜!懐炉が無い!」
 同室の者全員が室内をくまなく点検し始めた。俺も一緒に何食わぬ顔をして探したが、見付かる訳がない。やがて下士官が来て、全員の身体検査と所持品検査が行われた。俺はもし見付けられたら最後、万事休すだと、内心ビクビク、ハラハラしていた。幸運にも検査は無事うまいこと通過し、胸をなで下ろしホッとした。下士官は頼み込むように皆に話した。
「もし隠し持っている者が居れば、後でこっそり俺の元まで届けて欲しい。決して怒ったりはしないから」
しかし俺としては、こうも問題が大きくなっては、出しにくくなってしまったし、今更出せる筈もない。こうなっては徹底的に隠しおうせねばならぬ、と決意したのである。
 苦労した厳冬演習の慰労としてであろう、その日の午後から外出許可が出された。満人街には入れないので、新市街をうろうろした。新市街は都市計画化されており、近代都市の様相を呈している。道路は広く両側に街路樹が整然と植えられている。
 我がグループは早速映画館に入り、久しぶりに日本映画を見た。郷愁の想いを募りながらも楽しい一時を過ごした。たまには息抜きをして日頃の憂さをはらし、心の洗濯をするのも良いものだ。これは演習に派遣された者のみの役得であった。
 翌日、帰りの列車の中でも身体検査やら持ち物全部を、再度念入りに調べられた。たかが白金懐炉ひとつ俺が盗んだために、大勢の兵隊がとんだ目に遭ったのだ。俺もその都度寿命が縮まる思いがした。軍隊では員数がひとつ足りなくても、徹底的に調べられる。今は深く反省している。
 なお、このようにしてまんまと手に入れた白金懐炉は、残念ながらその後一度も使用することがなかった。肝心の燃料であるベンジンは手に入れにくいし、それよりも、もし使っているところを誰かに見られでもしたら、それはもう大変なことになるからだ。
 
11 匪賊討伐隊
 
 ここの勤務は不寝番と部隊衛兵であるが、俺も上等兵となった今、歩哨に立つこともなくなった。歩哨係として歩哨交代と巡視が主な任務である。分化隊なので大した訓練もしない。第一に兵隊の人数が少ないのだ。辰巳少尉の一個中隊は中隊から離れて、奥地山間の僻地にある、ちょっとした部落の駝腰子という所に分化していた。この小石頭河子の中隊は、二個小隊化していない訳である。
 この駝腰子の辰巳小隊が引き揚げて来て、辰巳少尉を長とする新編成の一個小隊が独立討伐隊として、冬季匪賊討伐に出動することになった。隊は二年兵と新密山に入隊してきたばかりの補充兵で編成され、体力頑強な選りすぐりの精悦達である。第一分隊長は有島伍長、第二分隊長は下士候の伍長勤務上等兵の森、第三分隊長は同じく伍勤の大友である。連絡係下士官は福岡軍曹である。俺は第一分隊の軽機の射手として、この討伐隊に参加することになった。
 中隊を出発して千振駅から列車に乗り、先ず連隊本部のある勃利に出向いた。ここの本部で糧材やら露営に必要な天幕、暖炉その他必要な携行資材一式を受領した。山中に入る準備を整えた後、雇い入れた満人の操るマーチョ(馬車)に携行材一式を満載して、勃利の兵舎を出発した。
 白銀の世界となった極寒の山岳地帯を、討伐隊は連日匪賊を追い求めた。隠れ家は永豊鎮東方の土竜山(どりゅうざん)にあると云う情報だ。この地域は農業開拓移民団が多数入植しており、度々攻撃を受けていた。今日はあっちの山からこっちの山、明日はまた向こうの山へという具合に果てしなき討匪行が続いた。
 目指す相手は三江省と満ソ国境を舞台に暗躍している、謝文東(しゃぶんとう)という匪賊の大頭目である。その勢力は六、七千人に達していたのだからこれはもう軍隊並み。その謝文東の首に、当時の金額で懸賞金五万円が賭けられていたのだから大した親玉である。何しろ神出鬼没、大胆不敵。広大な山中を我が庭の如く駆けづり廻っている怪盗だ。土地不案内の日本軍が如何に捜し求めようとも、到底逮捕出来るような相手ではない。我々討伐隊は来る日も来る日も山中に野宿した。山越え谷越え、人一人がやっと通れるような獣道を、息を枯らして突き進んだ。
 なお余談であるが謝文東なる人物について少し述べておこう。満州開拓移民団派遣の増加と共に、関東軍は移民用地の強制的買収を強引に推し進めていた。この方針に住民は不満をつのらせていた。そこで謝文東がいちはやく対抗して立ち上がり叛乱を起こすに至った。その後一時共産主義に共鳴して中国共産党の指導下に入っていたのだが、共産党の方針に対しても不満を持ち、満州へ帰ってきていたのだ。一本筋の通ったなかなかの人物のようである。
 兵士達は黙々として根気強く、辰巳小隊長の後からただ付いていくだけである。無人の山塞(※注)を見付けては、徹底的に破壊していく。ある時、山の尾根を通過していると、満人が二名、太い白樺の木に素っ裸で縛られて死んでいた。匪賊に略奪・襲撃された犠牲者なのか?それとも何か裏切り行為をしたとか、あるいは仲間割れとかで処刑されたのだろうか?匪賊の片割れかどうかは判らないが、いずれにせよ、このような人跡未踏の山奥で殺されているのだから、只者でないことだけは確かである。
【※注:山賊などのすみか、隠れ家、アジト】
 山中での野宿で一番困るのが、言うまでもなく飲み水の確保である。炊飯用に雪を溶かして水を得るのだが、一斗缶にいっぱい雪を入れても、得られる水はごくごく僅か。何回も繰り返してやっと飯が炊ける。携帯している食料が切れると、前進基地に戻り補給して再度出動する。基地といってもマーチョがぎりぎりに行ける所までである。そこからは徒歩で行動する。
 極秘情報が入り、大盤道という所へ急行のため、討伐隊が夜間行動をしていた折りのことだった。下士候の森が誤ってマーチョの車輪に足を挟まれ、骨折してしまった。これは大変なことになってしまった。山奥では手の施しようがない。本人はマーチョの車の上で横たわっているが、振動が激しく痛い痛い!と悲鳴を上げている。加えて夜間の寒気が厳しく、これでは直ぐに凍傷にかかってしまう。とうとう一個分隊を護衛につけて後方送還となってしまった。なお、森はこの時の負傷が原因で兵役免除となり、後に死亡したそうである。十九歳で現役志願、そして下士官を志願。子供っぽさの消えない、仏さんのような顔をした優秀な同年兵であった。
 我々は大盤道へ急いだが、この事故で時間を費やし、目的の地に到着した頃には既に匪賊は逃亡した後だった。しかし更なる追跡のため、なおも奥へ奥へと突き進んだ。
 この大盤道には比較的大きな河が流れている。橋がないので我々は下半身裸になって、この流れの急な半凍結の河を命がけで渡った。あまりの水の冷たさにたちまち足は真っ赤になり、麻痺しそうになる。身を切られるような痛さとは正にこのことで、生きた心地がしなかった。有難いことに先に対岸に渡った者が、焚き火をして待っていてくれた。
 道が無いので凍った谷川沿いにどんどん歩いて行った。が、この先には第一中隊が入っている筈なので途中から引き返した。往路と同じようにあの大盤道の半凍結の河を、再度命を賭けて渡河した。
 大盤道は誠に景色の良い地だ。内地でもこのような風光明媚な所は少ないだろうと思われる。河の片岸には奇岩がそびえ立ち、青々とした清流が小石の間を流れている。山紫水明、まるで山水画の世界そのものである。そして向こう側には白銀の世界と調和して、白樺の林が果てしもなく生い茂り、この絶景地を一層引き立てている。本当に美しい所ほど、このようにひっそりとしているのだろう。眺めているだけで、ともすれば戦争のことなど忘れてしまいそうになる。ここでは時間の流れ方がまるで違うように感じられ、心穏やかになる。平和になれば、再びゆっくり訪れたいと願った。
 我が討伐隊は山中を転々と移動を重ね、なおも執拗に追い続けていた。もう何十日も風呂に入っていない上、髪や髭は伸び放題、更に雪焼けをして人相は最悪。匪賊と同様にサバイバルな生活をしてきた訳である。これではどっちが匪賊か全く見分けがつかない。情けない姿であることは拒めない。
 ある晩のことである。自分の防寒靴が余りにも湿っていたので乾かそうと思い、暖炉の傍に置いて寝た。夜中、誰かが叫んだ。
「オイ大変だ〜!防寒靴が燃えてるぞ〜!」
その声に目を覚ますと、天幕内には煙がもうもうとたち込めている。もしや自分の靴ではないかと思い見てみると、案の定、自分の靴が焼けている。しまった!と思ったが後の祭りで、半分は完全に燃えて無くなっている。
『これは困ったことになった。どうしょう。靴なしでは一寸も歩けない』
 自分の不注意で大失敗をやらかしてしまった。翌朝出発前に、急場しのぎとして梱包材のドンゴロス(麻袋)で足をぐるぐる巻にした。スタイルは悪いが、これは思った以上に快適であった。歩くのにほとんど支障無く、皆と共に何とか行動することが出来た。
 三月も下旬に入り、そろそろ雪解けの兆しが見え始めた頃、この討伐行も一応終了となり、勃利の兵舎に帰営することになった。雪解けの山奥から下山するにつれ、平野部に出た頃には辺り一面草花が咲き始め、もうすっかり春近しであった。
 これでやっとドンゴロスの靴ともお別れで、ホッと胸を撫で下ろしたものである。勃利の兵舎に戻ってから、早速防寒靴は支給された。約二ヶ月に及ぶ討伐の数々の思い出と共に、小石頭河子の中隊に復帰した。
 小石頭河子に帰着と同時に、任期満了の召集兵達は即刻、召集解除になり内地帰還となった。その帰還兵と入れ替えに初年兵が入隊してきた。有島中隊長の指揮の下、初年兵の現地教育を兼ねて連日猛訓練が始まったのは言うまでもない。中隊の兵隊はこれで現役の二年兵と初年兵、それに補充兵で構成されることになった。
 気候も暖かくなってきた四月、またもや匪賊討伐作戦が開始された。俺もこの作戦に参加し出動することになった。今度は中隊長自らが陣頭指揮に立っての討匪行なので、大掛かりなものとなった。
 先ずベースとなる中隊基地を金沙峰という地に設け、更に奥地の五道崗に食糧補給の前線基地を設置。各小隊が山中に分け入り、手分けして捜索するのである。食糧が切れると前線基地に戻り、休養した後、再び山に入る。
 俺はこの討伐中に、小山上等兵と共に三本目の精勤賞を授与された。精勤賞三本の上等兵は優秀か、又は馬鹿正直でクソ真面目のどちらかであるらしい。
 討伐から戻ってくると、ほとんどの者が健康を害して病人が続出するので、衛生兵は大忙しだ。やはり討伐中の無理がたたっているのだろう。俺も腹痛を起こしていたが、明朝には討伐に出発しなければならない。そこで有島中隊長に申告に行ったところ中隊長は
「気合いを抜かしとる!腹痛ぐらい直ぐ治る、討伐に参加しろ!」
と怒鳴られたので、俺は思わず
「まぁ〜そう言わんと頼んますわ〜」
と咄嗟に大阪弁が出てしまった。有島中隊長は急に大笑いして
「では、まぁ〜そう言わんと、ほんなら休養しなはれや」
難しがり屋で有名な有島大尉も、案外人情味があるんだなあと敬服した。
 残留中は薪割り使役が待っていた。こんなことなら何もわざわざ頼みに行かんと、辛抱して討伐に行った方が、楽で良かったかも知れない。この辺りの森林には何百年も経ったであろうかと思われるような大木が、うっそうと生い茂っている。冬季でも日本人が銃片手に伐採に従事していた。そんな訳で焚木用の木材はふんだんにあった。
 
12 山中彷徨
 
 五月に入ると有島中隊長直々の指揮の下、またもや討伐隊が編成された。五道崗奥地山中には日本人開拓団が入植している。その伐採小屋の半地下室を借り受け、そこを前進基地として中隊が起居することになった。この屋根だけが地上に出ている半地下式の小屋は、厳寒期でもストーブひとつで割合快適に過ごせるらしい。つまり冬暖かく夏涼しいのだ。
 我が辰巳小隊は、更に奥地に向けて飽く無き討匪行に従事していた。小隊の食糧も少なくなってきたそんな折り、第一分隊の鳴川軍曹以下五名の兵と、食糧運搬として満人の苦力十名位と共に、金沙峰を目指して出発した。金沙峰の中隊基地に赴き食糧を受領するためである。
 山頂辺りを進んでいると、前に見かけた風景が目に飛び込んできた。俺はてっきり同じ地形だと思い込んでしまった。
「この谷を降りて行けば、直ぐに金沙峰に出られます」
止せばよいのに、俺は鳴川軍曹にそう進言してしまった。しかし、それはとんでもない誤認であった。
 谷を行けども行けども一向に開けず、とうとう日没が近づいてきた。その夜は真っ暗な谷底で露営した。もし明日も道が判らなければ大変なことになる。俺は心配で心配でまんじりともせず、祈る思いで一夜を明かした。
 翌朝早々、今日中には是が非でも金沙峰に辿り着かなければ、全員飢え死にしてしまう。また我等を待っている小隊も食糧不足で引き揚げねばならない。そして中隊は捜索隊を出して、雲を掴むようなこの広い山中をさまよい続けなければならない。鳴川軍曹は落ち着きはらって皆に言った。
「山で迷った時は、決して焦ってはならない。じっくり腰を落ち着けるのが肝要だ。闇雲に歩き回るのは、ただ疲労が増すばかりである。先ず谷を降りてみよう、そうすれば何処かに出られるだろう」
そう言う終わるや、直ちに道無き谷底を伝って下り始めた。
 俺は先頭に立って小枝を打ち払い、必死になって道を切り開いた。俺のせいで道に迷った責任感からくる精神力がそうさせるのか?とにかく無我夢中で道を切り開き、歩み続けた。すると不思議なことに益々全身に元気がみなぎり、動作もすこぶる軽やかになり、疲労などこれっぽっちも感じなかった。火事場の力持ちとはこのことだろうか?
 下るに従って谷は次第に大きく広がってきた。一行は勇気百倍で、ひたすら歩き続けた。夕暮れ近くになって、やっと谷間の湿地帯に出た。何処か判らないが、とにかく山から脱出したようである。この湿地に沿って行けば、いずれ村落に行き着くに違いない。
 
13 渡河作戦
 
 一行は休憩も取らずに、黙々と歩きに歩いた。だが突然、行く手に優に幅30mはあろうかと思われる河に突き当たってしまった。さぁ〜、どうしたものか?これは困ったことになった。河の流れはもの凄く、深さは見当が付かない。歩いて渡ることなど到底出来そうもない。あっさり激流に押し流されてしまうのは、目に見えている。仮設の橋を架けなければ、到底渡れるものではない。しかし、この急流にどのようにして橋を架けることが出来ようか?一同力が抜けて、その場にヘナヘナと座り込んでしまった。
 正真正銘絶体絶命、もはやこれ以上の前進は不可能か?と思案に暮れていたその時、満人の運搬夫達が、いとも簡単に言い切った。
「オレタチ、ハシツクル、マカセルヨロシ!」
まぁ橋が出来れば何でも良い、とにかく橋を作ろうと全員一丸となって作業に取りかかった。
 満人達は近くの山に入り、木を切り出してきた。兵士達も力を合わせ必死の作業準備である。さて次にこの急流の河にどうやって橋を架けるのだろうか?素人の我々はただただ満人達のすることを興味深く、傍観するのみであった。
 まず最初に岸の近くに一本の杭を突き立てた。続いて二本目、三本目を順次突き立て、蔦とか葛のようなもので先端を縛り合わせ、三脚を作った。その三脚を足場にして、続いて次のポイントにまた三脚を作っていく。この作業を繰り返し、対岸目指して三脚をどんどん延ばしてゆく。出来上がった三脚に順次渡し木が架けられる。やがて三脚の線は、遂に対岸まで到達した。同時に渡し木もしっかり固定される。ついにどうにか人一人が通れるようになった。
 我々は満人達のあまりの器用さ、頭の良さにビックリした。さらにチームワークが良く取れていることにも感心した。不可能だと思っていた架橋作業を、目前でいとも簡単に手際よくやってのけたのだ。彼らから見習うべき事は沢山あるようだ。さすが中国五千年、悠久の歴史を誇るだけのことはある。これ以降、俺の中国人を見る目が多少違ってきたのは確かだ。
 一方橋の強度は大丈夫だろうか?そこでまず小手調べに満人数人を先に渡らせてみる。割合頑丈に出来ているようで、どうやら心配なさそうだ。続いて我々も渡り始めた。全員が渡り終わると同時にその場を即刻出立した。
 この時期、満州の夕暮れは遅い。その夕闇迫る前に何処か安全な場所に、辿り着かなければならない。必死になって駆けるように急いだ。遙か右手前方に建物を発見。よくよく見ると日の丸が高く掲げられている。横には監視塔が建っていて、その櫓に歩哨がいるのが伺える。
 鳴川軍曹は一時皆を停止させ、しきりと双眼鏡を覗いていた。
「日の丸の旗を銃にくくりつけろ!」
しばらく経って命令を下した。俺は鉄兜の中にしまい込んでいた日の丸の小旗を素早く取り出した。この旗は渡満前に贈られたもので、親戚知人達の寄せ書きが書かれている。早速その旗を銃にくくりつけ、肩に担ぎ恐る恐る近づいて行った。門の前まで来ると、満人の保安隊が大勢立っていた。不審そうに我々を見ている。よく見るとその中に日本人がいるようだ。鳴川軍曹は手短に状況を説明し、頼み込んだ。
「道に迷って困っている。ついては今夜一晩の宿と食料を提供して欲しい」
 その日本人は快く承諾してくれた。地獄に仏とは正にこのことか!一同歓喜したのは言うまでもない。丸二日間飲まず食わずで山中を彷徨って来た。一安心した途端、その疲労が一気にドゥッとほとばしり出た。今まで緊張で何とか持ち堪えていた身体が、フ〜ッと力が抜けていくのを覚えた。
 ここは宝精県と云う所らしい。全くとんでもない方向違いで、どうやら反対側に出てしまったようだ。日系鉱山会社の出先だそうで、この施設は石炭採掘の作業所というか飯場のような所である。技師や現場監督の日本人、それに労務者の満人がかなり居る模様だ。匪賊の襲撃に備えて保安隊まで配備している。既に日はとっぷり暮れているので、その他の詳細は判らない。あてがわれた部屋でくつろぎ、暖かいい白米の飯にありつき、もう言うことなし。兵隊達はは元気を回復し、その夜はぐっすり眠ることが出来た。
 
14 生還
 
 翌朝、直ちに昨日来た道を引き返すことになった。急ごしらえの仮設橋は急流に流されもせず、そのまま残っている。元気を回復した兵隊や満人達はピッチを上げて先を急いだが、結局道が判らぬまま、とうとう日が暮れようとした。やむなく今夜も谷間で野宿するこになった。
 まだ暗くなるには少々時間があるので、じっとして居れない俺は山の稜線まで登ってみようと思い、一人で登り始めた。やっとの思いで尾根に辿り着き、腰を下ろして一呼吸。何気なくふと足元を見ると、グリコキャラメルの空箱が落ちているではないか!拾ってよく見ると、このグリコは出発前に甘味品として支給されたものだ。我が軍の小隊がここで休憩をした時、誰かが捨てたものであることは間違いない。さらに注意深く辺りを観察すると、稜線上に人の通った足跡がついているようだ。以前ここで小隊が小休止したに違いない。そう確信した俺は思わず
『しめた!ヤッタァ〜!』
と胸が張り裂けるほどドキドキし、跳び上がりたくなる程嬉しくなった。
 偶然に見付けたとはいえ、これはまさしく天の助け。すぐさま脱兎の如き勢いで一気に山を駈け降り、鳴川軍曹にグリコの空箱を見せて報告した。このことを聞いて喜んだのは兵隊達だけでなく、満人達も大声を張り上げ、小躍りして喜んだ。夜間行動は危険なので、その夜は野営した。
 翌朝、まだ薄暗い内に一行は出発した。かろうじて道さえ分かれば、後はただ部隊の足跡を辿って行けばよい。遂に大道崗の谷に出た。それまで張りつめていた気力が、いっぺんに抜けていくように思われた。
 やっと金沙峰中隊基地に到着、食糧を受領する給与係の正木曹長に事の次第を充分に語る間もなく、早々に受け取った。即刻出発して五道崗前進基地への帰路につく。一刻も早く小隊に食糧を届けなければならない。心は急ぐが思うように進めない。全員疲労困憊の上、満人達の足がゆったりしているからだ。またその日もとっぷり暮れて野宿となった。
 明けて翌日、出発してから丁度五日目に、山中に露営している小隊にやっと辿り着くことが出来た。我々の帰って来るのを今か今かと待っていたのだ。辰巳中尉以下全員は食糧が欠乏して、野草など食べていたと言う。もし我々の帰着があと一日遅ければ、辰巳中尉は引き揚げる積もりでいたらしい。誠に幸運であったと、苦労も忘れて互いに喜び合った。
 
15 湖南営駐屯
 
 五月ともなるとさすがに雪も融けてなくなるが、替わりに平地には湿地帯が出現する。我々討伐隊は山岳地のうっそうとした密林を連日行軍するので、雪道より多少楽である。
 初年兵の教育も一段落した頃、小石頭河子の分屯地から撤退して、湖南営の第三大隊駐屯地に移動した。相変わらず有島中隊長陣頭指揮により、猛烈な訓練が連日続いていた。我々二年兵をはじめ初年兵それに補充兵は、今まで討伐に明け暮れた日々を送っていたので、ここ最近まともな訓練は受けていない。そんな訳で連日、分隊教練から小隊訓練、中隊訓練と猛訓練が続いた。
 特に苦しかったのは防毒マスク着装での駆け足訓練である。これには皆、音を上げていた。何故このような訓練をする必要があったのか訝(いぶか)しく思っていたが、その時は大して気にも留めていなかった。合間に銃剣術の猛練習を挟み込む。まことに厳しい兵舎生活ではあったが、討匪行と比較すると精神的にゆとりがあった。なお、関東軍七三一部隊でBC兵器、すなわち生物(細菌)兵器と化学兵器が秘かに研究開発され、また生体実験が行われていたことを知ったのは、戦後しばらく経ってからのことである。
 そんな折り、七月二十五日、有島中隊にノモンハンへの緊急動員命令が下った。満州と外蒙古との国境に位置する大草原地帯ノモンハン(※注)で紛争が激化し、その戦線の戦局拡大に対応するためだ。直ちに湖南営の大隊本部迄帰還することになった。少しでも早く到着するため、道無き密林や湿地帯を横切り、休憩も取らず、文字通り不眠不休で湖南営に向かった。
【※注:ノモンハンとはラマ教の生仏に次ぐ僧の位のことであり、この付近一帯を治めていた旗長に与えられていた法位「ノモンハン」がそのまま地名となった。】
 帰還すると休む間もなく直ちに出動準備をしなければならない。俺は兵器係なので、弾薬の配分とか兵器の完全支給等に忙殺されていた。自分の身の回りのことなど、全く構っていられなかった。翌日の午後遅く、部隊の出発時刻に何とか間に合わせた。
 
16 ノモンハン戦線
 
 その日の夕刻、中隊兵士達は、湖南営の大隊本部からトラックに分乗して千振の駅に至り、直ちに待ち受けていた列車に乗車した。途中、勃利の連隊主力と合流して、一路ノモンハン戦線へ向け軍用列車は出発した。
 牡丹江、ハルピン、昂々渓を経由し、途中、白城子で一夜を明かし、最終駅のハロンアルシャンに到着したのは、翌日の日暮れ前だった。下車と同時に我々の頭上を、ソ連の偵察機が旋回飛行を続けていた。俺は身の危険を感じ、緊張感で胸のあたりが苦しくなった。
 ここは駅と言っても線路が敷設されているだけで、駅舎とかその他の施設は何もない。周辺に全く建物はなく、外蒙古国境にほど近い谷合の殺伐とした所だ。我々は直ちに散開して臨戦態勢をとった。そうこうしているうちに、ソ連機は引き揚げていった。
 その夜は携帯天幕を張って野営した。幸い一筋の谷川が流れているので容易に水が得られ、食事には不自由しなかった。夜間には急激に温度が下がり、ぐっと冷え込んだ。
 翌朝直ちに天幕を撤収して戦時重装備を身にまとい、ノモンハン前線手前のハンダガヤへと進軍が始まった。夜と昼の温度差が激しく、昼間は炎暑となり、重装備での強行軍は大いに身体に堪えた。道中、ソ連軍機の機銃掃射攻撃を受けたが、対空射撃で応戦した。ソ連軍機がいなくなったのを見計らって、再び行軍を続行。再度の襲撃を警戒して、小隊単位に散開しての行軍である。
 やがて谷川の畔の木陰で昼食となったが、疲労困憊の上に馬肉の缶詰ばかりでは食欲も失せる。結局、俺は昼食抜きで炎天下のなか、歩き続けた。戦時装備の軍装をして軽機関銃を担ぎ、しかも飯抜きでは体力が持つはずがない。体力の限界を越える寸前ではあったが、もう一歩たりとも歩きたくなかった。そこで夕暮れ近い小休止の時、俺は遂に一計を案じ、意識不明の真似をしてその場に倒れ込み、気を失った真似をしていた。ところがどっこい、世の中そんなに甘くない。
「小川上等兵は歌舞伎役者か?芝居がなかなか上手だな」
と有島中隊長にあっさり見破られてしまった。一兵卒から大尉にまで成った人だけに、その眼力はさすがだと変なところで感心させられた。しかし、その芝居の甲斐あって設営隊のトラックに、運良く便乗させてもらうことが出来た。
 隊より一足早く設営地に来たが、着くと同時に設営準備の使役に追いまくられた。
『これだったら何も落伍者の真似をせずとも、皆と行軍を続行して頑張っていた方が良かったかもしれないな・・・』
としきりと後悔した。‘後悔先にたたず’とはこのことだ。
 翌日、決死隊要員募集の通達があったので、俺は迷わず応募した。昨日落伍したので、その名誉挽回のためであった。任期は不明である。辰巳小隊長の指揮の下、満州国軍のトラック輸送隊に分乗した。そのトラックには弾薬が満載されている。
 トラックは砂漠のような大平原を、国境線に沿ってひた走りに走った。幸いソ連軍機の攻撃もなく、ノモンハン北東に位置する最前線の将軍廟という所に無事到着した。トラックに満載していた弾薬全部を用心深く下ろし、野積みにした。弾薬集積所警護のため、石川伍長以下俺も含めて兵五名がその場に残留した。
 日中は直射日光と砂地の照り返しがきつく炎熱地獄だが、夜間は急激に冷え込み、寒くて寝られたものでない。大草原の中での孤独な日々を数日間過ごした。赤痢にかかる者も出始めたそんな矢先、本隊に合流するよう命令があったので、夜間に出発して無事本隊と合流した。
 中隊はハンダガヤに駐留して付近の警護に当たっていた。砂地に大きな壕を掘り、携帯天幕を屋根代わりに張って野営していた。近くで飲料水は得られず、僅かに炊事用として、防疫給水班(※注)がドラム缶入りの水を給水車で運搬してくるのみである。このハンダガヤ地区は第一師団も隣接して駐屯していたので、大平原の荒野も兵隊一色に包まれていた。
【※注:当時、中国ではペスト・マラリア・赤痢・コレラ・梅毒・腸チフスなど有りとあらゆる風土病・伝染病が蔓延していた。日本軍が最も悩まされたのはこれらの感染症であり、その防疫に力を注がなければならなかった。さらに中国では生水は飲めない。そこで給水部隊が設けられていた。日本軍の戦傷死亡者は戦死者を上回っていたという記録もある。】
 更に日本軍はハルハ河近くの河岸にも進出、我が隊は外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)との国境警備に従事していた。ある日、俺は鳴川軍曹を長とする国境監視哨を命じられて、近くの山の頂を目指した。ここは本流に注ぎ込む支流の合流点に当たり、ハルハ河が一望に見渡せる。
 敵に発見されないよう擬装して双眼鏡を覗き、国境監視勤務をしていた時のことである。外蒙古側の山の斜面を、騎馬兵二名が駈け降りてくるのを発見した。不審に思って注意深く監視していると、その騎馬兵が川を渡り始めた。そして本流中央部にある中洲の島に渡って来て、樹影の中に消えてしまった。俺はビックリした。何故なら、この川はかなりの急流で水深も大分あると思っていた。しかし、何と!馬の足下30〜50p程の深さしかない。道理で急流を難なく渡れるはずだ。俺は直ちに鳴川軍曹にこのことを報告した。鳴川軍曹は
「これは大変だ!直ぐ中隊長に報告せねばならん!」
と言って直ちに陣地を撤収して、山を駈け降りた。隊に戻り、軍曹がその一部始終を中隊長に報告すると、中隊長は大いに喜び
「小川上等兵は金鵄(きんし)勲章(※注)ものじゃ!」
と言って即刻連隊本部に報告しに行った。
【※注:武功抜群の者に下付された勲章のこと。ここでは単に「でかした!」という意味で使われている。実際に勲章はもらっていない。】
 ハルハ河という比較的大きな河川があるのに、何故戦車や車砲などのソ連軍(※注)機械化兵団その他大勢の兵が攻撃してくるのか?渡河点は一体何処にあるのか?今まで謎とされていたことが、これでやっと判明。未知のベールがはがされたのだ。後で聞いた話だが、工兵隊が調査した結果、戦車や重砲が容易に渡れるよう、川底はコンクリートや石で固められていたとのことだった。
【※注:当時、外モンゴルとソ連は相互援助条約を結び、ソ連軍がモンゴルに駐屯して国境警備を担当していた。】
 関東軍はハルハ河を突破して、外蒙古への総攻撃を計画していた。我々中隊は前線に駐留、待機してその時を待っていた。九月十五日午前五時が総攻撃の予定日時であった。が、その直前、突然作戦は中止との命令が下った。急転直下、十五日に日ソ間で停戦協定締結への動きがあり、翌十六日に共同声明の発表が行われる予定であったらしい。なお終戦後に分かったことだが、この戦闘で日本軍は近代兵器装備のソ連軍に対して為すすべもなく、完敗を期したと云うことであった。
 
17 撤収そして湖南営へ
 
 やがてハンダガヤ地区から日本軍の撤退が始まった。九月ともなれば、夏服では夜間寒くて居られない。そろそろ現地の生活も限界にきていた。撤収命令が出てから、黙々と夜間行軍でハロンアルシャン駅に戻ってきた。列車は既に待機していたので、直ちに乗車する事が出来た。
 帰路、白城子・新京との中間辺りの駅に停車した僅かの間に、駅の郵便所に駆け寄り電報を頼んだ。牡丹江市聖林街に住む姉宅に、牡丹江駅に到着する時刻を打電した。この時、正木曹長に見付けられたが、何も言われなかった。
 列車は牡丹江駅にほぼ定刻通り到着した。俺は急いで改札口に向かって走った。姉は改札口の所で待っていてくれた。久しぶりの再会で積もる話しも一杯有った。駅舎の横で立ち話をしていると、憲兵に立ち去るよう注意された。非常に名残惜しかったが、姉にもらった菓子折りを小脇に抱え、自分の列車に駆け戻った。なお、この菓子折りは角谷班長に渡して、皆に食べてもらった。
 列車は無事、千振の駅に到着した。来るときはトラック輸送であったが、帰りは行軍で湖南営に戻った。ノモンハン緊急動員で出動以来、ざっと二ヶ月振りに帰還したので、現地の日本人に大いに歓迎された。通常軍務に戻るやいなや、連日に渡る演習・猛訓練の日々が再び続くこととなった。
 十月中頃になると早くも雪が降り始め、湖南営一帯は白銀の世界に包まれる。そんな頃有島中隊は、またまた冬季匪賊討伐に出動することになった。中隊本部は元辰巳小隊が分化していた饅' 0k腰子を基地としていた。辰巳小隊は付近の山岳地帯のふところ深く入り込み、連日、誰が見ても明らかに無駄とも思える討匪行を繰り返していた。
 明けて翌年の五月、紀元二千六百年の慶祝式典が佳木斯で挙行されることになった。第四師団所属の各連隊から将兵が選抜された。俺も選抜され、参列の光栄に浴することになった。式典会場となっている佳木斯の原野に集合、整列した。師団長から式典の祝辞があり、盛大に執り行われた。
 中隊長有島大尉が第三機関銃中隊長に転出され、後任に橋本中尉が中隊長として就任してきた。橋本中尉は下士候上がりの将校である。
 山下奉文師団長の随時検閲が実施されることになった。その随時検閲のため、予行演習が中隊長指導の下、連日中隊内で行われた。演習科目は鉄条網を張り巡らした敵陣地内に、小隊が突入するという想定である。手順として、まず鉄条網を切断破壊して突破口を作り発煙筒で合図、続けて小隊を誘導、敵陣に攻撃を加えるというものである。
 当日、俺は破壊班長の重責を背負っていた。極度に緊張していたし夜間でもあったので、不覚にも目標を見間違え、全く見当違いのあらぬ方角へ走ってしまった。時間が経ってから気付いたが時既に遅し、やむなく発煙筒を発射した。その合図で進撃してきた小隊は、鉄条網に阻まれ敵陣侵入出来ず、演習は見事大失敗のうちに終了した。演習後の講評では、小隊が予定の行動をとれず本演習の行動は全く何の効果もない、しかも演習で失敗するなど前代未聞、言語道断。軍の恥であると大勢の前で散々にこき下ろされ、大いに嘲笑された。その後しばらくの間、小心者の俺はショックのあまり意気消沈してめげ込み、絶望感に打ちひしがれ、悶々と悩む日々を過ごさなければならなかった。
 血液型O型の人間は俺も含め落ち込むのも急激だが、立ち直るのも滅法早い。そんな大失態から数日後、心のくもりも取れかけたある夜のことである。湖南営部隊衛兵の歩哨係として夜間勤務中、営内を巡察中に炊事倉庫の錠前を開錠、こっそり中に忍び込んだ。この錠前は多年に渡り使用され、かなり摩耗していた。力強く引っ張ると簡単に開錠出来ることを、俺は以前より知っていたのだ。倉庫の食糧棚からグリコ一箱をまんまと盗み出した。機関銃隊の馬屋内で開封して中身のキャラメルのみ自分の背嚢に隠匿した。空箱は馬屋内に隠しておいた。これがどういう訳か大隊本部付の週番将校に見付かり、即没収、こっぴどく絞られ問題となった。しかし、窃盗については最後まで白状せず、馬小屋で拾ったと言い通した。
 七月に入ると、西川准尉を長とする1個小隊編成の夏季匪賊討伐隊に参加した。今回は湖南営が遠く望見できる七星摺子山周辺の山中に出動した。何分にも夏季のことでもあり、蚊とかアブが密林中に大繁殖している。とりわけ新たなる小さなテロリスト、ダニには大いに悩まされ閉口した。
 ダニは頭上の樹木から落ちてきたり、足下の草木に潜んでいたりする。体中に深く食い込み、人の血を吸うのだ。一列縦隊の先頭に立ち、枝を払い草をなぎ倒し道を切り開く役目は最も辛い。この者が最も多くダニにやられるからだ。皆、小休止の度に裸になってダニ取りに夢中になる。ことに男の大事な急所の柔らかいところに喰らいついたダニは、まことに厄介で取るのに一苦労する。このように夏季討伐は、冬季討伐と較べると数倍骨が折れる。ダニによるゲリラ一斉集中攻撃を受け、とても匪賊討伐どころではなかったが、何事もなく無事に帰還することが出来た。
 そんな苦労の連続の討伐から帰着するなり、いきなり華中戦線へ出動するよう命令を受けた。早速その準備に取りかかった。近衛師団が仏領インドシナへ平和進駐のため出動したので、その後の警備を受け持つこととなったからだ。数日間、慌ただしい移動準備の日々を過ごし、いよいよ湖南営を去る日が来た。


−第一部終わり−


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