徒然つれづれひとりごと



《#4.俺たちのヒーロー》

〜団塊世代の懐かしきヒーローたち〜

(総文字数 約5,300文字)
 昭和30年代のTV黎明期に華々しくデビューしたヒーローと言えば,御存じ「月光仮面」.日本最初の記念すべきTVヒーローとして,あまりにも強烈なインパクトを少年たちの心にきざみ込んだ.当時,貧しかった我が家は当然のこと,近所にもテレビを持っている家は皆無であった.普及第一歩は昭和32年(1957年)4月,皇太子ご成婚がきっかけとされる.皇居から東宮御所への祝賀パレードが,日本初のテレビ実況生中継で行われることになった.この世紀の大パレードを一目見んと,全国民は躍起となった.この出来事こそ,テレビが家庭に普及する大きな原動力となった.と言ってもテレビはまだまだ高嶺の花.当時のお値段は,サラーリマン給料の半年分以上!所有出来るのはごく一部のお分限者(金持ち)に限られていた.一般庶民の茶の間まで広く行き渡るのは,昭和39年(1964年)10月,第18回オリンピック東京大会まで待たなければならない.
 
 そのような訳で少年時代の俺は,残念ながらテレビ版の月光仮面を一度も見たことがない.一方,映画は親に連れられ,ちょくちょく見に行っていた.そんなこともあり、俺の「月光仮面」のイメージは映画とマンガから得たものである.そこで,ここでは映画版の月光仮面を想定して話を進めることにしよう.

 あまりの超人気ぶりに映画界もやっと重い腰を上げ,東映が劇場用「月光仮面」を制作した.主役である「月光仮面」こと「うがい十郎」探偵役の俳優さんは,ミスマッチであったと,子ども心に記憶している.テレビ版の大瀬康一が,よっぽど役にはまっていたようだ.しかしながらテレビ版より予算が多かったせいか,当時のアメ車のような尾翼のついた白いカスタムバイクはメチャカッコよかった.すなわち仮面ライダーバイクのルーツは,ここにあった!さて,月光仮面がオートバイにまたがって颯爽と現れると,大人も子供も一斉に拍手をしたものだ.当時の映画館は常に満席であり,立ち見は常識であった.それにも拘わらず,もう一回「月光仮面を見たい!」と言って親を困らせていたようだ.あれは俺が小学3年生の頃だったろうか.
 
 当時「赤胴鈴之助」が大人気だったせいもあり、子どもたちの遊びはもっぱらチャンバラごっこであった.赤胴鈴之助は少年雑誌に連載されていたが,とても雑誌など買って貰える経済的余裕など我が家にはなかった.赤胴鈴之助はラジオドラマを通して知ったのである.テレビが普及していなかった昭和30年代初頭は,連続ラジオドラマが大流行だった.ラジオを聴きながら,子どもなりに頭の中で自由に想像を膨らませ,それを遊びに取り入れていた.「ちょこざいな小僧め,名を名乗れ!」「赤胴鈴之助だぁ!」と叫んで,必殺技“真空斬り”の真似をしたものだ.また悪ガキどもが集合すると,手拭いとか風呂敷で覆面をし、鞍馬天狗とか快傑黒頭巾などと称し,路上・空き地・田んぼ・畑などで遊び廻っていた.どうやら昔から子どもたちは,覆面とか仮面が好みだったようだ.
 ところが月光仮面が一躍,子ども達のヒーローに躍り出るやいなや、月光仮面ごっこがチャンバラごっこにとってかわった.チャンバラごっこ同様,覆面を被り風呂敷をマントよろしく羽織り、完全に役になりきっていた.さらに縁日とか駄菓子屋で買ってきたサングラスをかけ,ブリキ製の巻き玉式100連発銃を2丁腰に差すと,気分はもうすっかり「月光仮面」.何でも出来るような錯覚に陥り,石垣を飛び降りたり溝を跳び越えたりと,今思えば随分危険なことをしたものだ.この遊びで怪我人が続出し,全国的な社会問題にまで発展した.この結果を受け,惜しくもテレビ放送は1年5ヶ月で打ち切られた.時を同じくして映画もマンガも終了した.まさに主題歌同様「疾風はやてのように現れて,疾風はやてのように去って行く」を文字通り地で行った.
 なお昭和47年(1972年),おりしも懐かしマンガブームにのって,月光仮面はアニメ版として再登場するが,人気は今ひとつだった.
 
 ともあれ,このヒーロー遊びを通して現実とTV(映画)の違いを,身をもってまざまざと見せつけられ“危険な遊び”であることを否応無しに学習した.悪ガキにとって貴重な体験であったと言えなくもない.なお余談ながら上記の100連発銃については,次のことを懐かしく思い起こす.巻き玉はほとんどが不発.引き金を引いても『カチ,カチ,カチ,パァン』といった具合に,たまにしか発火しなかった.

               月光仮面
テレビ版


 
全5部 計130回※
放映時期:昭和33年2月(1958年)〜34年7月(1959年)
※ただし,第一部(全71回)放送分は,月〜土の10分間.
  第二部以降から毎日曜の30分間となる.
 映画版





 
東映 全6作(モノクロ)
昭和33年(1958年)制作
【月光仮面・第一部】 【月光仮面・第二部/絶海の死闘】
【月光仮面・魔人(サタン)の爪】
昭和34年(1959年)制作
【月光仮面・怪獣コング】  【月光仮面・幽霊党の逆襲】
【月光仮面・悪魔の最後】
マンガ版
 
月刊少年クラブ
連載時期:昭和33年5月(1958年)〜36年10月(1961年)

                赤胴鈴之助
テレビ版
 
放映時期:昭和32年10月(1957年)〜34年3月(1959年)
※スタジオ生放送
 映画版






 
大映 全9作(総天然色)
昭和32年(1957年)制作
【赤胴鈴之助】 【赤胴鈴之助/月夜の怪人】
【赤胴鈴之助/鬼面党退治】 【赤胴鈴之助/飛鳥流真空斬り】
【赤胴鈴之助/新月塔の妖鬼】
昭和33年(1958年)制作
【赤胴鈴之助/一本足の魔人】 【赤胴鈴之助/三つ目の鳥人】
【赤胴鈴之助/黒雲谷の雷神】 【赤胴鈴之助/どくろ団退治】
マンガ版 月刊少年画報 連載
 
 月光仮面に代わるヒーローとして,月光仮面と多羅尾伴内を足して二で割ったような,七つの顔を持つ正義の味方「七色仮面」が新たに登場した.原作は月光仮面の川内康範.この作品は「風小僧」と共に東映が本格的にテレビ界へ参入した記念すべき作品であり,東映子ども向けTV映画のはしりとも言える.第5部から「新・七色仮面」となり,体操界出身のあの千葉真一が主役を努めた.そのせいか丸みがかった仮面がこの頃より細長くなり,アクション場面も増え,より子ども達の人気を集め,仮面ヒーローの黄金期を築いた.なお原作者の川内康範は,作詞家としても活躍されていた.「誰よりも君を愛す」「君こそわが命」「伊勢崎町ブルース」「逢わずに愛して」「おふくろさん」など数多くのヒット曲を手がけている.
 番組を提供していたカバヤ食品のココナツキャラメルの味を,私は今だに覚えている.小遣いを貰えば駄菓子屋に走り,決まってココナツキャラメルを買っていた.キャラメルが欲しくて買っていたのではなく,景品と引換出来るクーポン券を入手したかったからに他ならない.

               七色仮面
テレビ版


 
全7部 計57回
放映時期:昭和34年6月(1959年)〜35年6月(1960年)
※1.1部〜4部劇場公開
※2.第5部より「新・七色仮面」となる
                風小僧
テレビ版


 
計48回
放映時期:昭和34年2月(1959年)〜34年12月(1959年)
※1.初代主演は目黒祐樹 → 【少年編】
※2.第二部から山城新伍主演 → 【青年編】
 
 なお,多羅尾伴内についてもう少し記しておこう.「ある時は競馬師,ある時は私立探偵・多羅尾伴内,ある時は画家,又ある時は片目の運転手,ある時はインドの魔術師,又ある時は老警官,しかしてその実体は,正義と真実の使徒・多羅尾伴内!」の決めぜりふと共に登場するのが,御存じ“七つの顔の男”  そうあの名探偵「多羅尾伴内」こと「藤村大造」だ.これは片岡千恵蔵の当たり役のひとつで“探偵ヒーロー”の元祖かもしれない.過去,何度も映画化されていることから,その人気は今でも極めて根強い.
 
 当時のヒーロー,特に仮面ヒーローは皆,姿を現す際,決まって高笑いをしていた.去りゆく場合も同様に笑いながらスッと音もなく消えていった.このシーンが妙にカッコよかった.一方悪漢の場合は,不気味且つしたたかに笑うのが定番だったようだ.
 なお,七色仮面と同時期に「豹(ジャガー)の眼」が放映開始された.これは月光仮面の後継番組として作られた作品であり,大瀬康一が主役を務めたアクションもの.

              ジャガーの眼
テレビ版


 
計38回
放映時期:昭和34年7月(1959年)〜35年3月(1960年)
※戦前の「少年倶楽部」連載同名小説をTVドラマ化
※ストーリーを凝りすぎ,子ども達には不人気だった


 昭和30年代のヒーローで絶対忘れてはならないのが「快傑ハリマオ」だ.この作品は全ての点に於いて,ひときわ異彩を放っていたと言えよう.以下にその特筆すべき点を述べる.

@日本初のカラーTV映画

 国内各家庭にカラーテレビどころか,まだ白黒テレビも普及していなかった時期(街頭テレビが幅をきかせていた)にカラー作品を創っていたとは凄い!の一言.カラーテレビ普及は昭和40年代(1965年)に入ってからで,本格的な普及は昭和45年(1970年)以降であったと記憶する.

ATV界初の海外ロケ(第三部以降)

 全編を通し東南アジア的な異国情緒たっぷり.第三部ではカンボジアのアンコールワットでロケ敢行.

B主題歌に三橋三智也を起用

 歌っていたのは歌謡・民謡界大御所の三橋三智也.子ども向けテレビドラマ主題歌としては異例.ただ番組当初は確か児童合唱団が歌っていたような記憶があるが,どうも定かでない.いずれにせよ「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌と共に,名曲中の名曲と言っても過言ではない.今でも口ずさむことが出来る,数少ない一曲である.

C「ハリマオ」のモデルは実在の人物

 福岡県出身の日本人青年,谷豊とされる.彼は単身マレーシアに渡り,数千人のマレー人を組織した盗賊団の首領となる.イギリス人や華僑のみを襲い,金品は貧しい人たちに分け与えたという正真正銘の義賊.マレー人たちは彼を「ハリマオ(マレーの虎)」と呼ぶようになった.戦時中,日本軍のF機関に協力して「ハリマオ工作」に参加するも,マラリヤにかかって急死する.時に1942年3月であった.なおもうひとり,陸軍大将山下奉文も「マレーの虎」と呼ばれた.

D提供「森下仁丹」

 スポンサーは,およそ子どもとは何の縁もゆかりもない口中清涼剤メーカーの森下仁丹.「ジンタン」の名とそのCMソングは,確かに子供たちの脳裏に焼き付いたのは紛れもない事実.売り上げに貢献したかどうかは別として・・・

E突然の番組打ち切り

 何の予告も説明もないまま,中途半端な状況で番組は終わってしまう.ロケ中に主人公が象に踏まれて死んでしまったという,まことしやかな噂を信じるしかない.

               快傑ハリマオ
テレビ版


 
全5部 計65回
放映時期:昭和35年4月(1960年)〜36年6月(1961年)
※1.海外ロケ敢行(第三部以降)
※2.悪役スター,牧冬吉の演技が光る
マンガ版
 
週刊少年マガジン
連載時期:昭和35年4月(1960年)〜不明
 
 その他,記憶に残っているのは風小僧,矢車剣之助,白馬童子,ナショナルキッドなどである.なにせその当時,テレビ放送はNHKと地元局(四国放送)の2局しか受信出来ない地域であった上,ずうずうしくもほぼ毎晩,近所のお宅に上がり込んで見せてもらっていた.そんなこともあり見たことのある番組は自ずと限定される.遊星王子,怪人二十面相,少年ジェット,鉄腕アトム,まぼろし探偵,鉄人28号,少年探偵団,隠密剣士などは,ほとんど知らない.

               矢車剣之助
テレビ版



 
放送回数:不明
放映時期:昭和34年5月(1959年)〜36年2月(1961年)
※1.主演の手塚茂夫は,後にスリー・ファンキーズへ入団,歌手    として活躍
※2.快傑ゾロ風のマスクと無限連発拳銃が印象的
マンガ版
 
月刊少年
連載時期:昭和32年(1957年)〜昭和34年(1959年)
                白馬童子
テレビ版


 
計38回
放映時期:昭和35年1月(1960年)〜35年9月(1960年)
※1.主演:山城新伍
※2.白馬にまたがったその姿は,ヨーロッパの王子様のよう
             ナショナルキッド
テレビ版


 
全4部 計39回
放映時期:昭和35年8月(1960年)〜36年4月(1961年)
※1.キッドの飛行シーンは本格的特撮技術を駆使
※2.提供は「ナショナル」の松下電器産業
 
 現在ならアニメが主流であるが,当時の子ども番組は全てが実写版であった.鉄腕アトムとか鉄人28号もしかり.いずれも今からすれば,何ともちゃちなセットでいかにも低予算であったことは拒めない.それでも目を輝かせ血沸き肉躍る思いで必死になって,12〜14インチ程度の小さなブラウン管の前にしがみついていた.

 当時のTVヒーローたちに共通する点は,めったやたらと強い,剣または拳銃の達人(両方の場合もある),身軽に跳べる(広義的には空も),やさしくて謙虚,頭脳明晰,目立つ(一目でそれとわかる衣装をまとっている)等,そして美男子(または美少年)であった.そんな人物,実在する筈なかろう!それだからこそ子どもたちは,いつの時代もヒーローに憧れるのかも知れない.俺たちのヒーローは,心のどこかで今も生きている!
 
(2006年5月記す)


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